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みんなが仲良く暮らせることが一番 [21]

作成者:さんぴん茶
作成日時:2004/09/16 12:21:15

今日初めてこの掲示板を見ました。みんないろいろ考えているんだなぁってから、すごい勉強になりました。
昨日は沖縄国際大学行ってきましたよ。実際目にして感じたこともいろいろあったけど、とにかく、自分のほかにもいっぱい人が来ていたことが何だか嬉しかったです。みんな関心あるんだなぁって。
ところでタイトルですけど、何でこれにしたかっていうと、もったいないなぁって思ったから。自分の家族や友人が大事なように、自分の知らない人のことまで同じように大切にできたら、いわゆる「平和」はすぐに実現できるんじゃないかなぁって思います。
わたしはいわゆる「北朝鮮」に行ったことありますけど、平和な国でしたよ、とても。百聞は一見にしかずっていうか。沖縄の人と同じように平和に暮らせることを願っていましたよ。敵を自分でつくったらいけないと思うんです。仲間はたくさんつくって、敵はできるだけ減らす、これがいいと私は思っています。
昔は気が合わないと思っていた人でも、話をして仲良くなった人っていないですか?争ったり、傷ついたりすることを願っている人なんていないと思いますよ。同じ沖縄に住んでいて、沖縄のことが好きなら、話し合っていけば必ず誰とでも仲良くやっていけると思います。
同じ人間なんだから、どこの国の人もそれは一緒だと思います。みんなが自分のできる精一杯のことをしていけば、必ず理想の社会は実現すると思います。理想は理想だけど、理想がなかったら何も実現しないと思いますから。

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26 久志の盆踊 報告
投稿者:保存会 [220.57.62.107] 通報 投稿日時:2010/09/01 21:52:47
遅れてすみません。
みんなも知っている通り、昔から七月の盆行事は旧七月七日の七夕13日のウンケー15日のウークイと盛大に行われている。
その行事の目的は祖先を祀る事を始め、来訪神を招き、悪霊を払い豊作豊漁、無病息災を祈願することにある。
7月ウドゥイと称して旧7月(旧盆)に行われている所と旧8月、または九月に行われているところもある。
それでは久志の盆踊は一体いつごろから演じられるようになったか。
それを調べるための資料や記録はほとんど無く、古老からの聞き取り調査でも起源を決定するには困難なため、
部落に残る僅かな伝えや、芸能に詳しい方々の話を基に推測することにした。


久志の組踊の台本「久志之若按司」の表紙裏に
「明治22年久志村二才中」とあった。
又、「義臣物語」の写しの表紙裏に「明治24年久志二才中」とある。
おそらく、この2つの台本は読み物として、求められたのではなく、盆踊で組踊を演ずるものだったと考えられるので、踊りをはじめたのは、明治22年~24年頃ではなかったかと推測される。

屋号浜比嘉の先祖、比嘉花樹氏は、最初の久志の若按司を演じた方だったとの言い伝えがある。
花樹氏は明治9年生まれで明治22~24年頃は久志の若按司を演ずる適齢期であったと考えられる。


王府時代、御冠船踊りの地謡であったといわれた安謝間のタンメーが廃藩置県後が、久志に寄留して、三線の指導をした久志の棚原屋の棚原中貞氏(明治5年生)や勢頭屋の宮里誠太郎氏(明治4年生)が、三線を習ったといわれている。
その方々の年齢からしても盆踊りの始まりは明治22年~24年頃ではなかったかと推測。


辺野古、松田、宜野座、惣慶等の近隣部落での聞き取り調査でも、
どの部落も盆踊の起源について確定することはできなかったが、明治22年後の事だろう。という話だった。
(参考資料:沖縄芸能史)

※興南優勝報告会では、「南部のレベルの高さ」を語られている方がいるけど、
今回の全国制覇は離島や北部出身の高い能力の選手がいなければ到底成し遂げられなかったといってもいい。
個人の意見として、北部のチームの方が質の高い野球をするよ。

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