魂知和
1968年の夏の甲子園で沖縄県勢初のベスト4進出の立役者、安次嶺投手。あのころの沖縄県勢は、1回戦敗退が当たり前の時代だったが、破竹の勢いで準決勝まで進出。
そのときのエース・安次嶺投手の奮闘抜きには語れないだろう。
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沖縄県勢としてセンバツ大会(昭和46年)で初勝利を挙げたときの普天間のエース・玉城善則投手は名投手の一人。初戦で弘前(青森)を3−2で下し、2回戦ではその大会で優勝した日大三高に6−7で敗れたが、日大三高はそれ以外の試合ではすべて完封勝利。唯一、普天間だけに失点を許した。
玉城投手だけでなく、打線も活発だった。
その年の夏の大会では県大会で優勝し、甲子園出場をかけて南九州大会に出場したものの惜しくも都城農(宮崎)に0−1で惜敗。春夏連続甲子園出場はならなかった。
玉城投手は177センチあり、チームの平均身長が165センチという小柄な選手が多い当時としては飛びぬけて大きかった。
大胆細心
この人をおいて沖縄の高校野球を語ることはできないでしょう。昭和50年春、豊見城高校がセンバツに初出場し沖縄県勢として初めてベスト8に進出したときのエースです。
この大会では初戦で優勝候補の一角、習志野高校(千葉)を3−2の2安打完封。2回戦では日大山形を4−2で下し、準々決勝では超高校級スラッガー・原辰徳(元巨人)を擁する東海大相模(神奈川)と対戦。9回2死まで三振12個を奪い無得点に抑え、1−0とリードしながらその後連打を浴び、まさかの大逆転負けを喫しました。
この試合は、沖縄の高校野球史に残る名勝負のひとつに挙げられているほどです。
翌年の昭和51年のセンバツにも出場、初戦で土佐高校(高知)に3−4で敗れたものの、その年の夏の大会では鹿児島実を3−0、センバツ準優勝校の小山(栃木)を2−1と撃破し見事ベスト8に進出。準々決勝では惜しくも星稜(石川)に0−1で敗れました。
結局、赤嶺投手は3回甲子園に出場しましたが、このときの「豊見城旋風」で全国の高校野球ファンやマスコミが赤嶺投手を「沖縄の星」と称え、あらゆるメディアで紹介されるようになりました。そのときの人気のすごさは、アイドル歌手顔負けだったのを記憶しています。
その年のドラフトで赤嶺投手は、巨人から2位指名を受けプロ入りしました。
7年間のプロ生活では残念ながら芽が出ませんでしたが、地元・沖縄のテレビコマーシャルにも出演するなど、その人気と知名度はまさに「沖縄の星」そのもの。
赤嶺賢勇投手は、沖縄が生んだ最大のヒーローといっても過言ではありません。
大胆細心
1965年に東京オリオンズ(現千葉ロッテ)に入団した下地恵清投手は宮古水産高校の出身で、1961年7月、宮古水産が県大会で初めてベスト4に進出したときのメンバーです。卒業後、宮古製糖に入り強打者と鳴らしました。
その後、プロへの夢を胸に秘め、東京オリオンズの入団テストを受け見事合格。
しかし入団後すぐに肩を痛め、わずか1年で退団しました。
引退後は、神奈川県警の警察官となり県警野球クラブで野球を続けたそうです。
残念ながら、1987年11月20日、職務中の交通事故で他界されました。44歳の若さでした。
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