プレイバック6
第1回招待野球試合が1974年5月、奥武山球場で行われました。招待されたのは、その年のセンバツで全国制覇を果たした兵庫の報徳学園と夏の大会で全国制覇を果たした千葉の銚子商。
報徳学園は興南、首里と対戦し連勝、銚子商は読谷と対戦し銚子商が勝ちました。
雨の影響で、数試合が中止になったのは残念でしたが、沖縄で行われた初めての招待試合ということで大いに盛り上がりました。
特に、銚子商にはプロでも大活躍した篠塚選手(元巨人)や、土屋投手(元中日)がメンバーに含まれ、沖縄の球児にとってレベルの高い野球と接することができ、意義のあるものだったでしょう。
ちなみに、興南には後にプロ入りした前泊哲明投手(元横浜)がいました。
この招待試合はそれ以来毎年5月に行われ、30年以上にわたって続けられています。
プレイバック5
1972年夏に甲子園に出場した名護高校は栃木県の足利工に4−5で敗れ、惜しくも初戦敗退。しかし、この試合で名護の5番・大城章幹選手が沖縄の選手として史上初めて甲子園球場でホームランを放ちました。
プレイバック4
甲子園で沖縄の選手が選手宣誓をしたのは次の三人の方です。1958年夏の首里高校・仲宗根弘主将、1960年春の那覇高校・牧志清順主将、1972年夏の名護高校・平安山良克主将。
1958年夏の首里高校は沖縄県勢初の甲子園出場を記念して、1960年春の那覇高校は沖縄県勢初のセンバツ出場を記念して、1972年の名護高校は沖縄の本土復帰を記念してそれぞれ選手宣誓の大役を任されたようです。
プレイバック3
元興南の金城博明選手。甲子園には出なかったけど、興南の主将で四番打者として活躍。身長194センチと沖縄の選手としてはこれ以上大きな選手は記憶にない。高校時代には沖縄で開催された九州大会にも出場。奥武山球場で見た場外ホームランは圧巻だった。
その後、法政大→日立製作所でも中軸打者として活躍。都市対抗野球では東京ドームで特大ホームランを放ったり、スポニチ大会などでも150メートル級のホームランを打ったという伝説の超スラッガー。
PL学園で甲子園を沸かせた清原和博選手とは同年代だが、現役時代の金城選手は「沖縄の清原」といっても遜色ないほどの選手だった。
プロ入りした金城博和選手の弟。
プレイバック2
1980年夏、久々に甲子園に出場しベスト8まで勝ち進んだ興南は、ベンチ入りメンバーの平均身長が176センチ、レギュラー平均で177センチと甲子園出場校の中では最も大型チームだった。当時のメンバーは、1番・ライト・石川吉和(177センチ)、2番・セカンド・比嘉昭夫(164センチ)、3番・センター・大城淳(177センチ)、4番・レフト・金城博和(185センチ)、5番・サード・渡真利克則(184センチ)、6番・キャッチャー・真栄田聡(172センチ)、7番・ファースト・慶田城広(177センチ)、8番・ショート・内間邦彦(176センチ)、9番・ピッチャー・竹下浩二(181センチ)。
その他に、玉寄尚(171センチ)、宮里幸男(180センチ)、砂川太(175センチ)、崎浜勝治(172センチ)、久場島清英(173センチ)、大見謝和裕(170センチ)。
このメンバーの体格を見て驚くのは、ベンチ入りメンバーの中で170センチに満たないのは一人だけで、あとは全員170センチ以上ということ。
当時の沖縄の選手は全国的に見ても小柄な選手が多く、1975年〜1978年にかけて豊見城全盛期を築いたチームでも平均身長が168センチしかないチームもあったほど。
豊見城全盛期のチームで最も大きかったのは、1975年春に出たチームと1977年夏に出たチームが平均身長172センチだった。
これを見ても分かるとおり、25年も前の興南がいかに大型選手をそろえたかがよく分かる。ちなみに歴代の沖縄県代表チームではこの1980年に甲子園出場した興南が最も大型チームだったともいえる。
このメンバーからは金城博和(元日本ハム)、渡真利克則(元阪神)、竹下浩二(元横浜)とプロ野球選手が3人も出たのをはじめ、東京六大学にも真栄田聡、内間邦彦が法政大、社会人にも大城淳が日産自動車、石川吉和がプリンスホテル、久場島清英が川崎製鉄千葉、玉寄尚が中山製鋼と、プロ、アマいずれも野球の名門といわれるところへ進んだ。
甲子園での戦績は以下の通り。
2回戦 興南7−2新湊(富山)
3回戦 興南14−0旭川大付(北北海道)
準々決勝 興南0−3早稲田実(東東京)
涙の初勝利
1963年の夏に甲子園に出場した首里高校は日大山形を4−3で下し、沖縄県勢として甲子園初勝利を挙げる。しかし、その試合は西宮球場で行われたため、正確には甲子園初勝利といえるのかどうか・・・。一応その試合が県勢初勝利として後世に伝えられている。
プレイバック
1回戦でPL学園(大阪)と対戦した首里は、PL学園のエース戸田投手から何と21個も三振を奪われ、ヒットもわずかに1本しか打てず8−0の完封負け。27アウトのうち21のアウトが三振という記録はいまだに破られない大会記録として残っていますが、この頃の沖縄の高校野球のレベルはまだ本土とかなり差があり、初戦敗退が当たり前という時代でした。
ちなみに戸田投手は、後に阪急ブレーブスに入りプロでも活躍しました。
WBC
大城直也はすごい立浪タイプあのバットコントロールは凄い沖水で一年生からレギュラーででてたのは先にも後にも大城意外いいない
共立までは順調にきてたが社会人になって伸び悩んでるようです
竹中
沖縄出身の野手で唯一プロで活躍したのが石嶺和彦氏。次にプロでも活躍出来る野手は大城直也だと思っていたが。。。あれぐらい力があっても何故プロから誘いが来ないのか理解出来ない。ここ数年沖縄高校生の中でプロの野手でやっていけると太鼓判押せる選手は私の目で確認出来なかった。これから先に石嶺氏、大城直也みたいな選手が出て来るのを期待してます。チバリヨ! 沖縄球児
1975年春 1回戦 豊見城3−0習志野(千葉)2回戦 豊見城4−2日大山形(山形)
準々決勝 豊見城1−2東海大相模(神奈川)
1976年春 1回戦 豊見城3−4土佐(高知)
1976年夏 2回戦 豊見城3−0鹿児島実(鹿児島)
3回戦 豊見城2−1小山(栃木)
準々決勝 豊見城0−1星稜(石川)
1977年春 1回戦 豊見城10−0酒田東(山形)
2回戦 豊見城0−10箕島(和歌山)
1977年夏 2回戦 豊見城9−2水島工(岡山)
3回戦 豊見城1−0広島商(広島)
準々決勝 豊見城3−8東洋大姫路(兵庫)
1978年春 1回戦 豊見城1−3桐生(群馬)
1978年夏 2回戦 豊見城3−2我孫子(千葉)
3回戦 豊見城4−1東筑(福岡)
準々決勝 豊見城5−6岡山東商(岡山)
甲子園出場春4回(4年連続)、夏3回(3年連続)、春ベスト8進出1回 夏ベスト8進出3回
震天動地
昭和33年(1958年)に沖縄代表として初めて甲子園に出場したチームは平均身長が162センチだったらしい。その頃に比べると約10センチも大きくなったということですね。
の
仲田秀司捕手。仲田幸司投手とバッテリーを組み、春1回、夏2回甲子園に出場。その年のドラフトで西武からドラフト5位指名を受ける。
肩の強さ、強気のリードを見て、当時の西武・広岡監督が絶賛した沖縄歴代ナンバーワン捕手。
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