1. 沖縄の情報TOP
  2. 沖縄掲示板
  3. 仕事・アルバイト
  4. 自分の夢を形にしたい方ご連絡ください
お名前:
※投稿すると、利用規約・ガイドラインに同意したものとなります。

自分の夢を形にしたい方ご連絡ください [3]

作成者:yogorouza メール
作成日時:2010/10/12 16:34:42

来年早々に小さな会社を家内と二人でを始める予定にしています。

そのための資金が少しですが余裕があるので、別事業として任せられる方を募集いたします。

業種は問いません。

ご自分のやってきたことに自信があり、これから自分の力でやっていきたいと思っている方がいらっしゃいましたらご連絡ください。

とりあえずどのようなことがしたくて、どれくらいの費用がかかるのか。

また、収入はどれくらい見込めるのか、そしてその仕事に対する思いをどれだけ持っているのかを明記してください。

お一人でやるのも良し、チームを組むのも良し、ご自由に考えてください。

報酬は完全歩合で純利益の60%を考えています(最初から自信がない方は給料制でもいいと思いますが)。

このように完全に何も無い所から始めたいと思いますので、一緒に作っていければとおもいます。

まだ来年の話ですので、じっくりといろんな方の話を伺ってお一人だけに決めさせて頂きたいと思います。

詳しいお話はまずはメールで行ないましょう。

それではよろしくお願い致します。

このトピックを・・・
 アラート設定 アラート設定   通報 削除依頼
※メッセージの削除依頼は投稿者の右にある 通報 をクリックして下さい。

メッセージを投稿する

メッセージの投稿

▼お名前:

▼メッセージ

利用規約・ガイドラインに沿った投稿をお願いします。

投稿メッセージを表示( 3 件中 1 件 〜 3 件目)
表示件数 : 10件 | 15件 | 20件
新着順 | 書き込み順 |
7 投稿者:本村安彦 通報 投稿日時:2011/05/29 18:01:17
取り戻そう!!地域の安全は伝統的商法「訪問販売」で!!

「照屋敏子とゆらり~アチネー」

沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子/高木凛
脚本家で沖縄料理店を営む著者が、シャンソン歌手の石井好子経由で知った沖縄
の女傑・照屋敏子について取材し、その人生を辿ったノンフィクション。

以下は「照屋敏子」で検索したらトップ表示された東日新聞のページから抜粋し
ましたのでご覧下さい。

 照屋敏子は1915(大正4)年、玉城傳七、カミの長女として沖縄・糸満町糸満(現・糸満市)で生まれた。


 父母は2歳の敏子と6歳の兄を祖母トクに預けて、ブラジルに渡ったが、母は移民船の中で死亡、22年に帰国した父も敏子が7歳の時、病没した。


 頭にバーキ(魚かご)を載せて魚を売りさばく糸満の女は「カミアチネ」と呼ばれるが、敏子は9歳で腰でバランスをとりながら糸満から那覇までの道をはだしで歩き通して魚を売り歩いた。


 31年、16歳になった敏子は妻子のある漁船の船長に恋してセレベス島に渡ったが、恋に破れた敏子は自分の稼いだ金は自分のものになる女の財布「ワタクサー」をためて、極楽鳥のはく製や黒檀(こくたん)のステッキを仕入れて沖縄で売り、沖縄の浴衣を南方に持って行き、サイパン、トラック、ダバオ、パラオなどの島々を往復した。


 19歳の時、小学校の恩師・照屋林蔚し再会、結婚した。


 戦後、福岡にいて沖縄関係引き揚げ者の収容所の悲惨なさまを目の当たりにした敏子は福岡県知事の依頼で、食料確保と引き揚げ者救援事業として「沖ノ島漁業団」を結成、女親分として勇名をはせる。


 56年、マライ(マレーシアおよびシンガポール)で合弁事業「春光水産」を起した敏子は漁業団長として船に乗り込み、操業の指揮をとったが、漁業権を失って破綻(たん)、敏子はワニ皮バッグ3点だけを持って沖縄に引き揚げ、「クロコダイルストア」を設立、商才を発揮して64年には糸満市に1万坪の土地を入手してプランクトン研究所、那覇市でマッシュルーム試験栽培、糸満に農水産研究所を設立してクロダイ、ボラ、クルマエビ養殖、メロン栽培など多くの事業に取り組んだ。


 沖縄自立のために闘った敏子(84年、68歳没)の一生を著者の高木凛(脚本家、沖縄懐石「赤坂潭亭」主)は敏子と親父のあったシャンソン歌手・石井好子、ジャーナリスト・大宅壮一、作家・火野葦平の敏子観を中心にその骨太の生涯を
たどっている。
 (小学館、1500円+税)


以上、東日新聞のページから抜粋した。


以下は、とある照屋敏子を紹介する文章があまりにも的外れに思えたため、あえてそれをベースに修正しながら小生の照屋敏子像についての私見をまとめてみました。ご一読下さい。


小生本村が思うに、実は、照屋敏子の青春期には沖縄の産業が自立出来るカギが隠されているように思える。


敏子は7歳の時、南米から帰ってわずか数年しかならない父親まで失う。

そして9歳から50キロもの魚を頭に担いで行商を始め、糸満から那覇まで運んだという。


その事実にこそ当時の敏子自身も今の沖縄も忘れてしまっているとても大切な沖縄経済の自立にはなくてはならない覚悟の必要性があるのではないか。


つまり「小さな、狭いマーケットなんだ沖縄本島は」ーという沖縄の経営者にとってとても大事な自分自身の展開するマーケットの狭さに対する覚悟をどれだけ持っているか?ーという点である。

沖縄本島内だけで商売を続けるには地道に歩き回る覚悟がなければ成り立たない、という古からの慣わしを知らなかった敏子は南洋諸島へ駆け落ちしてまで、南方と行ったり来たりして私貿易を試みたりしたのだろう。


南方で邂逅した小学校時代の恩師の那覇の旧家に嫁ぎ、家財と共に福岡に疎開していた戦後、沖縄出身の引き揚げ者のために漁業団を組織し、自分が先頭になって海へ出て、糸満伝統の漁法で大漁を続け一時的な成功は収める中、魚の買い取り価格が安すぎると、役所やマスコミを相手に活動し名を馳せ、女山田長政、女次郎長の異名を取る。

しかし、「経営者自身が自ら先頭に立ち地道に歩き回り顧客獲得を繰り返すことでしか成り立たない狭い市場・マーケット規模」ーであるとの古からの沖縄本島内での伝統的経営手法・商法をすでに忘れてしまっていた敏子は、そのまさに狭い市場・マーケット規模の琉球・沖縄の人々からは高慢・傲慢だと誤解され、敏子が成功の源としてきた糸満漁法をも禁止され、失業しそうになると、マレーの実業家と手を組み漁業団として乗り込む。


これも失敗して、鰐皮のバッグ三つを持って帰ってくるが、それが商売になることに気づき、那覇で輸入雑貨の店を開業して大当たりを取ったそうだ。


しかしその砂上の成功のせいや本土復帰などでやって来る本土商法をうらやみますます沖縄の伝統的な歩き回る商法から遠ざかり本土の商法に寄り添うようになる。


本土復帰を境に更に本土の人間などとより多く親交を持つようになった敏子は、沖縄の自立のためと思いこんで新規にマッシュルーム栽培やメロン栽培やウミガメ養殖などをもくろみ、事業を拡大しては失敗し続けるのである。


足元の伝統をかなぐり捨てた格好の照屋敏子自分自身そのものの沖縄。事業をサポートしていた子供たちも逃げだす羽目に。先見の明を持ちながら、思いこみの激しさ故に成功しきれなかった人、という感じだろうか、、、。


案の定、評論家の大宅壮一に評価され、おだてられた末に暴走してしまったのではないか、というのが著者の見方のようである。


さて、ここから本題に入ります。


先日市役所の待合室に座る機会があった。


役場ロビー入り口付近に山積みの冊子や立てパネルに張り巡らされた内容を見て驚いた。


なんと!! 「頭にバーキ(魚かご)を載せて魚を売りさばく糸満の女は「カミアチネ」と呼ばれるが、敏子は9歳で腰でバランスをとりながら糸満から那覇までの道をはだしで歩き通して魚を売り歩いた。」ーこの照屋敏子の「訪問販売」そのものを主な問題商法と銘打った冊子が山積みになり、立てパネルに大きく展示されているではないか。


「頭にバーキ(魚かご)を載せて魚を売りさばく糸満の女『カミアチネ』と呼ばれる沖縄本島伝統の商法『ユラリーアネー』」ーは、この浦添市までやって来ることが近年まで続いていたぐらいである。糸満近郊では現在もなお続く伝統的商法である。


かつて琉球・沖縄では夜になってさえも鍵など掛け戸締まりをして寝床に着くなどという習慣などなかった。何故ならば地域が照屋敏子張りの「カミアチネ」或いは「ユラリーアチネー」などの商売人が常に歩き回ることで「衆目の目」により安全が守られていたからである。


その裏付けは、仮にその「訪問販売」手法・商法の商売人が悪さをしてどんなに逃げ回ろうが、南は喜屋武岬から北は辺戸岬に身を隠そうが、狭い琉球・沖縄。直ぐに見つかって御用となり、二度とこの沖縄では商売が出来なくなる事を十分に周知している。生業を捨て生活の場そのものを変えるにしても手段は唯一つ海を渡らなければならなくなるからである。


県境を越え他府県へ徒歩で渡れるような生温い本土の状況とは比べ物にならない大きなリスクを背負う事になることはこの島の大人なら誰でも知っている宿命である。


言いたい事はつまり、この琉球・沖縄はほんの数年前まで地域安全保障そのものは皆訪問販売のお陰だったということです。


日本本土で発生する数々の悪徳商法のパンフレットや立てパネル掲示板。中身を見るとほとんど99パーセントはこんな狭い沖縄本島内では起こりようがない例ばかりが並べられている。


これでは女傑・照屋敏子といえども仕事が出来なくて干上がってしまうのではないでしょうか。


今や沖縄でも、誰も水道水を直接飲まない。飲料水は買うか又は殆どのキッチンに純正として組み込み、工場の浄水器を通した水買って使う費用のおよそ50分の1~100分の1の費用で収まる台所用「浄水器」を利用しているのが現状である。


にもかかわらず、そんな現実とはうらはらに今のところ浄水器販売をまだまだ「悪徳商法」だとする誤った時代錯誤的姿勢が行政・市役所に垣間見られるようである。


しかし、そんな市民生活に欠かせないような大切な「浄水器」という商品を紹介する商法のほとんどが「訪問販売」だからといって、その「浄水器」を扱う商行為を「悪徳商法」視するような役場などの行為が批判されない期間が果たしていつまで続くというのだろうか。疑問である。


なぜなら、本来ならば「浄水器」を扱おうが扱わなかろうが商行為そのものを生業とする市民・業者を支えなくてはならないのが行政であり、役場の仕事の筈ですから。


市民運動~内部被ばく防止逆浸透膜方式浄水器普及に向けて~

以上
2011年5月28日 無党派無宗教無団体 本村安彦

沖縄県浦添市港川2ー10ー8
金城本村リフォーム設計
個人・本村安彦
電話:098ー8765538
携帯:080ー3964-4623
0

スポンサーリンク

2 投稿者:斎藤 通報 投稿日時:2010/12/07 13:20:24
車がある以上絶対必要な仕事です 競争相手がありません
0
1 投稿者:yogorouza 投稿日時:2010/10/12 16:34:42
来年早々に小さな会社を家内と二人でを始める予定にしています。

そのための資金が少しですが余裕があるので、別事業として任せられる方を募集いたします。

業種は問いません。

ご自分のやってきたことに自信があり、これから自分の力でやっていきたいと思っている方がいらっしゃいましたらご連絡ください。

とりあえずどのようなことがしたくて、どれくらいの費用がかかるのか。

また、収入はどれくらい見込めるのか、そしてその仕事に対する思いをどれだけ持っているのかを明記してください。

お一人でやるのも良し、チームを組むのも良し、ご自由に考えてください。

報酬は完全歩合で純利益の60%を考えています(最初から自信がない方は給料制でもいいと思いますが)。

このように完全に何も無い所から始めたいと思いますので、一緒に作っていければとおもいます。

まだ来年の話ですので、じっくりといろんな方の話を伺ってお一人だけに決めさせて頂きたいと思います。

詳しいお話はまずはメールで行ないましょう。

それではよろしくお願い致します。

0

スポンサーリンク






沖縄関連コンテンツ

沖縄ニュース

最近チェックしたトピ

掲示板カテゴリ

このトピックを携帯で見る

ヘルプ

おすすめ情報