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メッセージ:名護の平安山良克主将が甲子園で選手宣誓をしたのは1972年(昭和47年)の夏の大会だけです。
1972年(昭和47年)春の選抜では1回戦で松江商(島根)の2年生左腕の中林投手の前にわずか3安打に抑えられ、3-1で敗れました。
翌年に同じく春夏連続甲子園に出場した前原もそうですが、バッティングマシンが全国的に普及し始める前の1970年代前半までのチームは打力に大きな課題がありました。
これは沖縄のチームに限った話ではなく、当時の甲子園大会のスコアを見ると、今の時代と違って3点以内のロースコアの試合が非常に多いことに気づきます。
つまり、好投手と当たれば完封されるか1点ないし2点しか取れないという試合が多かったですね。
1968年(昭和43年)に甲子園ベスト4を果たした興南は別ですが、沖縄のチームが打力もつけてきたなという印象を持ったのは1975年春に甲子園に出た豊見城あたりからです。
話は名護に戻りますが、名護が甲子園に出た年は沖縄が本土に復帰したということで、それを記念して沖縄で優勝すれば無条件で甲子園に出場できると思ったのですが、節目に当たる記念大会ではなかったために、やはり南九州予選(二次予選)で勝たなければ甲子園には行けませんでした。
本土復帰の年に宮崎代表を下して実力で甲子園に行けたことはとてもよかったと思います。
また、1960年代の沖縄県勢はチームの平均身長も166センチ前後と小柄な選手が多かったようですが、この年の名護は170センチ前後あったのではないでしょうか。
首里が沖縄県勢として初めて甲子園に行ったときの平均身長は162センチだったといわれ、ベンチ入りメンバーで170センチを超えていたのは一人だけだったそうです。
ちなみに、沖縄の選手が甲子園で選手宣誓をしたのは1958年(昭和33年)の仲宗根弘主将(首里)、1960年(昭和35年)の牧志清順主将(那覇)、1972年(昭和47年)の平安山良克主将の3人です。

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