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タイトル:ry
名前:fbh
メッセージ: 繁栄と
悲しみの都 

大いなる王国の歴史をきざみ、人々のくらしを見つづけてきた首里城は、いつごろだれによって築かれたのかわかりません。
尚巴志(しょう はし)の三山統一のあと、国王の城と定められた首里城は、美しい王都首里の町とともに大いにさかえ、きらびやかな王朝文化をうみだし、そこでくりひろげられてきた琉球国の躍動感あふれるドラマを私たちに伝えてくれます。

第一尚氏王統(しょうしおうとう)七代と第二尚氏王統19代の国王の居城として、500年近くも琉球を支配してきた首里城の歴史は、先人たちの喜びや悲しみに彩られ、私たちをロマンの旅へと手をそえて導いてくれます。
戦いを勝ちとった者の喜びの声、やぶれ去る者の無念のさけびが、首里の頂きの古城の
跡から聞こえてくるようです。
戦争の前まで、美しい正殿が古城にひっそりとたち、先人たちが伝えてきた歴史を静かに
語りつづけてきたのですが、はげしい戦闘であとかたもなく消えてしまいました。

王国の夜明け

●按司の誕生

四世紀ごろになると、日本本土では豪族のおさめる国がたくさんあらわれ、やがてそれが、勢いの強い豪族を中心にして、より大きな一つの国にまとまり、政治を行うようになっていました。ところが私たちの琉球列島では、まだ貝塚時代がつづいていました。
こうした私たちの祖先が、やがて稲作の技術をおぼえ、人々が定まったところに住みつき、各部落を中心とする生活がはじまります。そして、部落の指導者である頭を「根人(ねびと)」とよび、この人の家を「根所(ねどころ)」とよぶようになります。根人は、部落のしごとや共同作業などをさしずするようになるのです。

こうした部落としての社会がだんだん発展して力が強くなっていくと、根人のなかには、本土の大和朝廷に貢物などをおくって、日本本土とのむすびつきを深めていく者もあらわれてきます。大和朝廷では、このような私たちの祖先のことを「南島人」とよんでいました。このような交流が記録として残されているのが七世紀ごろからで、奈良時代(714年11月)に南島人52人が奈良の都に行ったことが記録されています。
さて、生産力が高くなり本土との交流もいっそう力の強くなってきた根人は、やがてほかの部落も支配するようになります。こうした大きい地域を支配し指導するようになった大指導者は「按司(あじ)」とよばれるようになります。だいたい10〜20ほどの部落の土地と住民を支配し、そのひろさは現在の町村かあるいはそのほぼ半分ぐらいであっただろうといわれています。
13世紀ごろになると、これらの按司たちは、海外との交易を活発に行ない、グスクをさかんに築くようになります。日本本土では鎌倉時代にあたります。

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