少年サッカー [230]
作成者:###
作成日時:2004/02/16 23:46:00
少年サッカーについて書いてね!
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投稿メッセージを表示( 230 件中 96 件 〜 105 件目)
親御さんもコーチに意見をどうどうと言われた方が良いと
私は思ってます。
大人だから意見交換して、方針修正する事もあれば、方針
を貫く時もあります。
意見を言われたからといって、子供の立場が心配などとい
う記述が時折、トピにも見られますが、そんなコーチは指
導者失格と思います。
子供の指導は子供の指導で、終始一貫した方針で指導しな
ければ、子供達だって付いてくる訳、ありませんよ。
全ては子供達にとって良い方向に進むように、大人達は試
行錯誤を続ければ良いと思ってます。
だから、コーチとしてもドンドン意見を言って貰いたいと
思います。(子供の前でなく、大人同士の場で言っていた
だいた方が、子供達が混乱しなくて良いと思います。)
私は、そのように思って、子供達と活動してます。
私は思ってます。
大人だから意見交換して、方針修正する事もあれば、方針
を貫く時もあります。
意見を言われたからといって、子供の立場が心配などとい
う記述が時折、トピにも見られますが、そんなコーチは指
導者失格と思います。
子供の指導は子供の指導で、終始一貫した方針で指導しな
ければ、子供達だって付いてくる訳、ありませんよ。
全ては子供達にとって良い方向に進むように、大人達は試
行錯誤を続ければ良いと思ってます。
だから、コーチとしてもドンドン意見を言って貰いたいと
思います。(子供の前でなく、大人同士の場で言っていた
だいた方が、子供達が混乱しなくて良いと思います。)
私は、そのように思って、子供達と活動してます。
今までは指導者の役割分担のうち、監督のこと、つまり監督に必要な効果的リーダーシップと、それに基づく具体的行動について述べてきた。しかし、リーダーシップだけでは、「権威」という影響力から、いいチームをつくるのには矛盾を生じて、問題を引き起こす可能性があることは前でも述べている。
そこでチームには監督だけでなくコーチが必要であると私は考えるのである。そして特に重要となってくるのがコーチの役割なのである。
ではコーチについて考えてみよう。コーチの役割というと、はっきりしたものが存在しないように思われる。それでも一応、一般に言われているのが「コーチは指導者であると共に監督を補佐して助ける役目である。」ということである。だが、その補佐する役割と言うものが、実際には監督だけではなく、組織を構成しているあらゆる要素を補佐し、援助する、助ける役割であると私は考えるのである。つまり組織的に考えた場合、コーチという存在は組織のあらゆる場面における援助者、つまり「マルチヘルパー」となる必要があると考えるのである。助ける役目、それが 実は少年サッカーの指導においては重要となってくるのであり、少年に対する望ましいサッカーの指導ができるようなチームへの変革に必要となってくるのである。
つまり、監督のリーダーシップや「権威」という影響力の防御壁となって、子供のサッカーの技術を伸ばすために、自由に、楽しくサッカーをするために、さらには、子供の心身の健全な成長、特に人間の欲求のなかでも高次元である自己実現の欲求への、内発的動機付けを促すための「援助」をする役割なのである。したがって、少年の指導に必要な“楽しさ”の要素、“技術重視”の要素に関係してくるのは、コーチの役割であると考えるのである。
コーチに限らないと思います、これは指導者、コーチ、父母子供達を取り巻く環境全体だと考えます
サッカーブームによって数多くの少年が指導を受けているという状況から、少年サッカーにおける指導が、少年の健全な育成、健全な成長に、何らかの影響力を与えるであろうことは、想像に難くない。少年サッカーの指導から、事件、事故が起これば、社会問題になる恐れも十分に考えられる。だからこそ今、少年サッカーの指導を十分に考え直す必要があるのだといえる。
「子供たちが、サッカーというスポーツに生き生きと取り組むことができるように、指導者は常に自分があずかるチーム(集団)の雰囲気に気を配る必要があります。
それは、チームの雰囲気というものが、子供たちのサッカーに取り組む意欲に大きく影響するからです。・・・略・・・子供たちにとって“サッカーをする時間がいちばん楽しい”というふうになれば、チームの雰囲気は俄然活気づいてきます。
サッカーの楽しさとは何かということを考えたとき、楽しさの内容は様々です。それらは次のように分類されます。
1.体を動かす楽しさ
2.できないことができるようになる楽しさ(技術を高める楽しさ)
3.指導者や仲間に認めてもらう楽しさ
4.ライバルに勝つ楽しさ、試合に勝つ楽しさ
5.仲間や指導者と協力する楽しさ
6.自分自身に打ち勝つ楽しさ
これらの楽しさは、子供たちの年齢、技術水準、体力、心理的発達の度合などによって違ってきますが、いずれにしても、1人1人の楽しさの中身が何なのかということを的確に把握して、それをうまく引き出してやるようにします。」
「少年サッカーの指導では、“ゆとり”が不可欠だといわれます。“ゆとり”とは何かというと、時間的な余裕ではなくて、子供たちの自由な発想や意欲を妨げないということです。
自由な発想や意欲は、教えすぎたり、ノルマを与えすぎたりすることによって妨げられます。
取り巻く環境を作る事はとても重要で、指導者・コーチの皆さんが子供達に情熱を伝えられるように父母の方にも絶対に気持ちは伝わると思います。
”連携”・・・”絆”・・サッカーにとって大切な言葉でしょう。
指導者は何ぞや!コーチは何ぞや!子供達!父母の方々!熱意が伝わる事で環境は変わるでしょう。
サッカーをやる子供達が主人公で、他の方は指導者をはじめサポートの気持ちを忘れてはいけません。(将来の黄金Jを育てましょう。)考え方ひとつで環境は変わります。
皆さん頑張れ!
「子供たちが、サッカーというスポーツに生き生きと取り組むことができるように、指導者は常に自分があずかるチーム(集団)の雰囲気に気を配る必要があります。
それは、チームの雰囲気というものが、子供たちのサッカーに取り組む意欲に大きく影響するからです。・・・略・・・子供たちにとって“サッカーをする時間がいちばん楽しい”というふうになれば、チームの雰囲気は俄然活気づいてきます。
サッカーの楽しさとは何かということを考えたとき、楽しさの内容は様々です。それらは次のように分類されます。
1.体を動かす楽しさ
2.できないことができるようになる楽しさ(技術を高める楽しさ)
3.指導者や仲間に認めてもらう楽しさ
4.ライバルに勝つ楽しさ、試合に勝つ楽しさ
5.仲間や指導者と協力する楽しさ
6.自分自身に打ち勝つ楽しさ
これらの楽しさは、子供たちの年齢、技術水準、体力、心理的発達の度合などによって違ってきますが、いずれにしても、1人1人の楽しさの中身が何なのかということを的確に把握して、それをうまく引き出してやるようにします。」
「少年サッカーの指導では、“ゆとり”が不可欠だといわれます。“ゆとり”とは何かというと、時間的な余裕ではなくて、子供たちの自由な発想や意欲を妨げないということです。
自由な発想や意欲は、教えすぎたり、ノルマを与えすぎたりすることによって妨げられます。
取り巻く環境を作る事はとても重要で、指導者・コーチの皆さんが子供達に情熱を伝えられるように父母の方にも絶対に気持ちは伝わると思います。
”連携”・・・”絆”・・サッカーにとって大切な言葉でしょう。
指導者は何ぞや!コーチは何ぞや!子供達!父母の方々!熱意が伝わる事で環境は変わるでしょう。
サッカーをやる子供達が主人公で、他の方は指導者をはじめサポートの気持ちを忘れてはいけません。(将来の黄金Jを育てましょう。)考え方ひとつで環境は変わります。
皆さん頑張れ!
目指す少年の指導に対する指導者以外の者の誤認や外部の影響力である。それは子供の誤認であるとか、あるいは子供の親、つまり保護者の誤認といったような、チームをとりまく周囲の人々の「勝つ」ことと「育てる」ことのうち、「勝つ」ことを優先してしまうという誤認なのである。また、Jリーグはプロであるので「勝つ」ことを要求されている。少年の大会も様々に開催され、そこにはタイトルが設けられており、そのためには「勝つ」ことが要求される。しかし、それによって子供、あるいはその親が、少年サッカーに対しても「勝つ」ことが要求されていると錯覚を起こしてしまうのである。つまり少年サッカーで勝つにはどうしたら勝てるのかばかりを考えてしまっている。さきほど取り上げた「少年サッカーの指導」でも述べられていたが、ボールキープやドリブル、フェイントといった技術はそこそこでも、ディフェンスは高く大きく蹴れて、フォワードは足が早く、体格の良い選手をそろえ、足の早さで縦の攻撃が早くできるチームであれば、ある程度の大会は制覇できる。ところが、技術やセンスを問われるJリーグのジュニアユースには、そうしたチームの選手からはなかなか合格者は出ないのである。逆に、技術を徹底して磨いているチームでは、試合に勝つことはあっても、勝つためだけにプレーするということはない。何が試合のなかで何がいいプレーなのかを追求するため、試合の勝利云々より、それぞれの個人レベルに合わせた課題の克服が重要視される。それが高いレベルで意識され、積極的に個人の課題を克服していった選手のなかから、最終的にはプロを目指すようなクラブ合格者も出ている。
チームをとりまく人々の中にはサッカーに必要な要素がなんであるかということなど知らない人も少なくない。その要素とは、メンタリティ(心的要素)、技術、戦術、体力、さらにはルールの理解も含まれるがまず最低その5つである。そのうち、戦術はその選手が子供のうちからそのポジションに落ち着くわけでもなければ、監督によっても選手の効果的な使い方、動かし方はさまざまに異なるであろうし、体力は体の成長などから年代によってトレーニングの仕方はまったく異なってくる。 少年期からずっと磨き続けなければならないもの、最も一貫して要求されるのはメンタリティと、技術の要素である。ということは、サッカーというスポーツのため、つまり日本サッカー界のためには、子供の意欲を妨げぬよう十分に注意を払いながら、自由に楽しくサッカーをさせて、その中で技術を常に磨かせることがもっとも重要な目標であるのだ。こうして考える限り「いかに子供たちがサッカーに必要な技術を身につけられたか」「子供達がいかに楽しく自由にサッカーを楽しめたか」ということが要求されるのである。これは別にチームが負ければよいと言っているのではない。技術が身につかないうちから、勝利云々は語れないと言うことなのである。技術が向上すれば当然「勝ち」への意識は強くなる。また、勝つことが楽しさの要素にもなり得る。だからこそ技術の向上と、サッカーをすることの楽しさが条件として満たされた上でならば、結果としての勝利は認めていいのである。チームは勝ってもいいのである。したがって、「勝利至上主義」をチームから排除することと、サッカーの観点から考えた「技術至上主義」への転換と、少年育成の観点から考えた「楽しさ至上主義」への転換が求められることになるのである。
しかしながら残念なことに、そういう現実、真実は依然子供やその親たちには理解されていない。それぞれ、どう考えているのだろうか。
まず、子供はどう考えるか。子供の立場から考えて見れば、確かにただ強いだけのクラブであっても入ってみたいと子供は考えるかもしれない。Jリーグを見ていたり、大会も頻繁に開催されるので、「強いチームはかっこいいから」というような、「勝つ」ことによる優越感とか、「勝つ」ことのうれしさ、楽しさ等から、理由も余計に強化される。しかしながら勝つために厳しく指導が行われ、サッカー自体が楽しめないのならば、長期的には、厳しい指導のためにだんだん上級性になるにつれて子供たちはやめてゆくことになり、子供にとっても、クラブ自体にとっても継続していきにくいのではないだろうか。勝つためにプレーするのは、それで生活していくプロである。クラブの子供たちは決してプロではない。それならば、「勝利至上主義」的に指導する必要はないのである。子供にはそれが分からず、闇雲に勝つことを求めてしまうのである。
親の立場から考えて見ると、クラブに入れるからには、自分の子供の心と体を強くたくましいものにしたいとか、友達をつくり、道徳心を育てることで「社会性」を身につけさせたいと考えるだろう。子供がスポーツを通じてもっと丈夫に育って欲しいとか社会生活に必要なルールやマナーを身につけて欲しいという願いを持つ親は多いであろう。
しかしながら、親の立場としての動機と子供の動機は違ってくる。大人の価値観や大人の理論、文化の押し付けは、必ずしも子供に対していい結果を与えるとは言えない。厳しく躾てもらいたいがために、「ビシバシ仕込んでやってください」などと指導者に話す親もいるのが実際である。それで躾だけでなく、指導まで厳しいクラブに入れてしまうのではおかしいのである。また、親の動機とサッカー界の考え方にも隔たりがある。今までの指導ではサッカーの発展のために、いや、それは見せかけであって、実はチームの勝利のために、たくさんの子供達が厳しい指導の犠牲になっているのだ。「燃え尽き症候群」といわれているのがその象徴である。それは、上に進むにしたがって、サッカーを楽しむことができずに、意欲を失っていってしまう選手のことを示している。こうした選手の上に立つ指導者は、サッカーそのものや、チームの勝つことにばかり目がいってしまい、少年の指導における、子供の心身の健やかな成長や、健全育成という観点をほぼ失ってしまっている。そうした状況が理解されずに親たちは、厳しい指導をクラブの指導者に要求するのである。さらには、試合の応援をする親が、子供に勝ってほしい(いや、自分の子供のいるチームが勝ってほしいという親の見栄なのかもしれないが)と願うあまりに、やたらにはしゃいだり、加熱ぎみの応援をすることがある。このような状況では、子供達の健全な育成に少年サッカーが役に立っているとは考えにくい。逆に、指導者が高い理念を持っていても、周囲の意識が改革されなければ、簡単には勝利至上主義からは抜け出せないのである。そして、結局は望ましい少年サッカーの指導、育成、少年の健全育成にはたどりつかないということになるのだ。
第2にこのような原因がある。市販の少年サッカーの指導書には、技術を上げる練習や、技術解説などは細かく、しかも図説まで加えて詳細に書いてあるが、子供の心理的な面や体の成長面にまで深く掘り下げてどう指導するのか書いてあるものは依然として少ない。言い換えれば、子供の心理などを良く考えることによって、うまく個人の能力を引き出すような指導法が、具体的に提示されている指導書があまりに少ないのである。結局、指導書でとりあげられている練習が子供の指導においてなぜ必要なのか、どうして有効なのかと考えられずに、ただ「勝つ」ために行われてしまうことになるのだ。チームの中で行われていることが、意欲や動機づけといった、そこに現実に起こっている子供の心理的作用に気付かずに進められることになるのである。
そして第3に、ほかのチームの指導者との情報交換がなかったり、指導者の育成の場があまりにも少ないという原因もある。市のサッカー協会主催の春季や秋季の大会では月に1度各チームの監督が集まって会議が行われるが、話し合いの内容は大体、市の大会のスケジュール調整や、確認などがほとんどで、チームの活動報告や、技術交流のための話し合いなどが行われることはほとんどない。チームが「勝つ」ためには、敵となる他のチームに指導の技術や、情報を提供することが、即不利益をもたらすからである。そのため、お互いに指導の技術に関してはチームが固く殻を閉ざしてしまう。それならばいっそ、協会が公に一流の指導者を招いて、指導者講習会や技術講習会を開けば良いと考えるであろう。しかしながら、サッカー協会主催の指導者講習会も、実際に監督をしている方には何らかの連絡があるとしても、公に参加者を募って開催されることは現在の状況においては存在しない。選手の強化体制は充実してきているというのに、依然として指導者の育成は進められてはいないのである
チームをとりまく人々の中にはサッカーに必要な要素がなんであるかということなど知らない人も少なくない。その要素とは、メンタリティ(心的要素)、技術、戦術、体力、さらにはルールの理解も含まれるがまず最低その5つである。そのうち、戦術はその選手が子供のうちからそのポジションに落ち着くわけでもなければ、監督によっても選手の効果的な使い方、動かし方はさまざまに異なるであろうし、体力は体の成長などから年代によってトレーニングの仕方はまったく異なってくる。 少年期からずっと磨き続けなければならないもの、最も一貫して要求されるのはメンタリティと、技術の要素である。ということは、サッカーというスポーツのため、つまり日本サッカー界のためには、子供の意欲を妨げぬよう十分に注意を払いながら、自由に楽しくサッカーをさせて、その中で技術を常に磨かせることがもっとも重要な目標であるのだ。こうして考える限り「いかに子供たちがサッカーに必要な技術を身につけられたか」「子供達がいかに楽しく自由にサッカーを楽しめたか」ということが要求されるのである。これは別にチームが負ければよいと言っているのではない。技術が身につかないうちから、勝利云々は語れないと言うことなのである。技術が向上すれば当然「勝ち」への意識は強くなる。また、勝つことが楽しさの要素にもなり得る。だからこそ技術の向上と、サッカーをすることの楽しさが条件として満たされた上でならば、結果としての勝利は認めていいのである。チームは勝ってもいいのである。したがって、「勝利至上主義」をチームから排除することと、サッカーの観点から考えた「技術至上主義」への転換と、少年育成の観点から考えた「楽しさ至上主義」への転換が求められることになるのである。
しかしながら残念なことに、そういう現実、真実は依然子供やその親たちには理解されていない。それぞれ、どう考えているのだろうか。
まず、子供はどう考えるか。子供の立場から考えて見れば、確かにただ強いだけのクラブであっても入ってみたいと子供は考えるかもしれない。Jリーグを見ていたり、大会も頻繁に開催されるので、「強いチームはかっこいいから」というような、「勝つ」ことによる優越感とか、「勝つ」ことのうれしさ、楽しさ等から、理由も余計に強化される。しかしながら勝つために厳しく指導が行われ、サッカー自体が楽しめないのならば、長期的には、厳しい指導のためにだんだん上級性になるにつれて子供たちはやめてゆくことになり、子供にとっても、クラブ自体にとっても継続していきにくいのではないだろうか。勝つためにプレーするのは、それで生活していくプロである。クラブの子供たちは決してプロではない。それならば、「勝利至上主義」的に指導する必要はないのである。子供にはそれが分からず、闇雲に勝つことを求めてしまうのである。
親の立場から考えて見ると、クラブに入れるからには、自分の子供の心と体を強くたくましいものにしたいとか、友達をつくり、道徳心を育てることで「社会性」を身につけさせたいと考えるだろう。子供がスポーツを通じてもっと丈夫に育って欲しいとか社会生活に必要なルールやマナーを身につけて欲しいという願いを持つ親は多いであろう。
しかしながら、親の立場としての動機と子供の動機は違ってくる。大人の価値観や大人の理論、文化の押し付けは、必ずしも子供に対していい結果を与えるとは言えない。厳しく躾てもらいたいがために、「ビシバシ仕込んでやってください」などと指導者に話す親もいるのが実際である。それで躾だけでなく、指導まで厳しいクラブに入れてしまうのではおかしいのである。また、親の動機とサッカー界の考え方にも隔たりがある。今までの指導ではサッカーの発展のために、いや、それは見せかけであって、実はチームの勝利のために、たくさんの子供達が厳しい指導の犠牲になっているのだ。「燃え尽き症候群」といわれているのがその象徴である。それは、上に進むにしたがって、サッカーを楽しむことができずに、意欲を失っていってしまう選手のことを示している。こうした選手の上に立つ指導者は、サッカーそのものや、チームの勝つことにばかり目がいってしまい、少年の指導における、子供の心身の健やかな成長や、健全育成という観点をほぼ失ってしまっている。そうした状況が理解されずに親たちは、厳しい指導をクラブの指導者に要求するのである。さらには、試合の応援をする親が、子供に勝ってほしい(いや、自分の子供のいるチームが勝ってほしいという親の見栄なのかもしれないが)と願うあまりに、やたらにはしゃいだり、加熱ぎみの応援をすることがある。このような状況では、子供達の健全な育成に少年サッカーが役に立っているとは考えにくい。逆に、指導者が高い理念を持っていても、周囲の意識が改革されなければ、簡単には勝利至上主義からは抜け出せないのである。そして、結局は望ましい少年サッカーの指導、育成、少年の健全育成にはたどりつかないということになるのだ。
第2にこのような原因がある。市販の少年サッカーの指導書には、技術を上げる練習や、技術解説などは細かく、しかも図説まで加えて詳細に書いてあるが、子供の心理的な面や体の成長面にまで深く掘り下げてどう指導するのか書いてあるものは依然として少ない。言い換えれば、子供の心理などを良く考えることによって、うまく個人の能力を引き出すような指導法が、具体的に提示されている指導書があまりに少ないのである。結局、指導書でとりあげられている練習が子供の指導においてなぜ必要なのか、どうして有効なのかと考えられずに、ただ「勝つ」ために行われてしまうことになるのだ。チームの中で行われていることが、意欲や動機づけといった、そこに現実に起こっている子供の心理的作用に気付かずに進められることになるのである。
そして第3に、ほかのチームの指導者との情報交換がなかったり、指導者の育成の場があまりにも少ないという原因もある。市のサッカー協会主催の春季や秋季の大会では月に1度各チームの監督が集まって会議が行われるが、話し合いの内容は大体、市の大会のスケジュール調整や、確認などがほとんどで、チームの活動報告や、技術交流のための話し合いなどが行われることはほとんどない。チームが「勝つ」ためには、敵となる他のチームに指導の技術や、情報を提供することが、即不利益をもたらすからである。そのため、お互いに指導の技術に関してはチームが固く殻を閉ざしてしまう。それならばいっそ、協会が公に一流の指導者を招いて、指導者講習会や技術講習会を開けば良いと考えるであろう。しかしながら、サッカー協会主催の指導者講習会も、実際に監督をしている方には何らかの連絡があるとしても、公に参加者を募って開催されることは現在の状況においては存在しない。選手の強化体制は充実してきているというのに、依然として指導者の育成は進められてはいないのである
。サッカーが人気だからといって、ただ闇雲にサッカーやりたい子供を集め、チームを作っていては、いいチームはでき上がらない。子供の保護者に対して、指導者としての理念をきちんと伝えられるような組織、チームに関わるそれぞれの人の役割分担の明確化など、チームを組織として構成する上で甘い部分があるようでは、「指導の理念」は徹底されないのである。特にこの組織づくりの上で問題が生じていると、チームを取り巻く人々の認識不足という、指導における問題を引き起こす原因を導くことになる。したがって、この組織づくりに着目していく必要がある。
ところが、これによって矛盾も生じてしまうのである。これだけに充実した組織をつくるには、監督の強力なリーダーシップが必要となるし、それだけ充実させた組織を運営していくためには、強力なマネジメント能力も必要となる。そうしたリーダーの影響力は、サッカーそのものの指導においては、「指導の理念」から考える限り、あまり必要ではない。指導における影響力は、「監督」という肩書きからくる、「権威」的な影響力となりかねないからだ。そしてそのような影響力は、サッカーをしているときの子供にとっては、束縛の原因となる。その結果、サッカーのプレーをルーティン化させ、子供のプレーにおける創造性や、「こうやってみたい」という意欲の妨げになってしまうのだ。
こうしたチームの外的、内的問題には、共通の根本的問題がある。それが文化的問題である。それはつまり、チームをとりまくあらゆる要素に「勝利至上主義」という文化が蔓延しているということである。それがチームにもたらされ、チームの組織文化として、様々な問題やギャップを引き起こすのである。組織文化とは、その組織に支配的となっている考え方や雰囲気、価値、あるいは規則など目に見えない意識の部分から目に見えるものまで含め、それらすべてを指すのだが、この組織文化がチームという組織で形成されるには、リーダーの行動が大きく影響するとともに、それだけでなく、さまざまな内的、外的要因に影響される。つまり、「勝利至上主義」という組織文化は、構造上、あるいは管理の形態上、形成され、根付いてしまうということもあれば、もともとチームのメンバーの大半がそうした文化を持っていたために、「勝利至上主義」という意識が支配的になって、結果的に根付いてしまうということもある。私が考えるには、少年サッカーのチームの場合、組織構造と、メンバーの意識と、さらには前で述べたような様々な外的要因も影響した3重の相乗効果によって、「勝利至上主義」という組織文化は深く根付いてしまったのだと考えられる。
ところが、これによって矛盾も生じてしまうのである。これだけに充実した組織をつくるには、監督の強力なリーダーシップが必要となるし、それだけ充実させた組織を運営していくためには、強力なマネジメント能力も必要となる。そうしたリーダーの影響力は、サッカーそのものの指導においては、「指導の理念」から考える限り、あまり必要ではない。指導における影響力は、「監督」という肩書きからくる、「権威」的な影響力となりかねないからだ。そしてそのような影響力は、サッカーをしているときの子供にとっては、束縛の原因となる。その結果、サッカーのプレーをルーティン化させ、子供のプレーにおける創造性や、「こうやってみたい」という意欲の妨げになってしまうのだ。
こうしたチームの外的、内的問題には、共通の根本的問題がある。それが文化的問題である。それはつまり、チームをとりまくあらゆる要素に「勝利至上主義」という文化が蔓延しているということである。それがチームにもたらされ、チームの組織文化として、様々な問題やギャップを引き起こすのである。組織文化とは、その組織に支配的となっている考え方や雰囲気、価値、あるいは規則など目に見えない意識の部分から目に見えるものまで含め、それらすべてを指すのだが、この組織文化がチームという組織で形成されるには、リーダーの行動が大きく影響するとともに、それだけでなく、さまざまな内的、外的要因に影響される。つまり、「勝利至上主義」という組織文化は、構造上、あるいは管理の形態上、形成され、根付いてしまうということもあれば、もともとチームのメンバーの大半がそうした文化を持っていたために、「勝利至上主義」という意識が支配的になって、結果的に根付いてしまうということもある。私が考えるには、少年サッカーのチームの場合、組織構造と、メンバーの意識と、さらには前で述べたような様々な外的要因も影響した3重の相乗効果によって、「勝利至上主義」という組織文化は深く根付いてしまったのだと考えられる。
小禄キッカーズが強いに決まってる!!
くどすぎる!
とてもすばらしいご意見です。
人に応援されるチーム 人に感動を与えるサッカー目指せ!
人に応援されるチーム 人に感動を与えるサッカー目指せ!
子供が主人公です。大人はその環境をどう変えるか?
どうサポートするか?鍵でしょうね。
貴重なご意見有難う御座います。
どうサポートするか?鍵でしょうね。
貴重なご意見有難う御座います。
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