少年サッカー [230]
作成者:###
作成日時:2004/02/16 23:46:00
少年サッカーについて書いてね!
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投稿メッセージを表示( 230 件中 121 件 〜 130 件目)
この4つのちーむがつよいとおもう
小禄キッカーズは去年は強かったのに・・・
少年サッカーの育成において、「勝ちにこだわるのは間違っている」といったニュアンスの言葉を耳にすることがよくあります。主に指導者の立場にある方から聞かれることが多いわけですが、その一方で、熱い声援を送る側の観戦者の感覚とはズレが生じることもあるようです。また、真意がちゃんと伝わっていないがために、混乱してしまうこともあるようです。
指導者たちがいうところの「勝ちにこだわるのは間違っている」の趣旨は、将来もずっとサッカーを続けていくとした場合、今すぐに花を咲かせることに目を向けるのではなく、将来を考え、今はしっかりと種を蒔き、肥料を加えることの方が大事であり、それがやがては大きな花を咲かせ実を結ぶであろうということでしょうか。
このような将来を見据えた育成の考え方は、青少年の教育としては一般的な考え方ですので理解しやすいところですが、多少、大上段に構えた考え方でもあるので、サッカーはただ単に子供に体力を付けさせたいためにやらせているだけだとか、サッカーは小学生までで中学生になったら違うスポーツをやるつもりだとか等、あまりサッカーに思い入れの深くない選手や保護者にしてみれば、「なにもそこまで考えてもらわなくてもいい。今、サッカーを楽しめればいい。」ということにもなろうかと思います。月謝を払って通っているようなクラブチームの選手や保護者なら受け入れやすいでしょうが、様々な思惑の選手が集まるスポーツ少年団にいたっては、ケースバイケースかも知れません。ですから一律に「勝ちにこだわるのは間違っている」という考え方を押し付けてしまうと、失敗しそうな気がします。
また、「勝ち」へのこだわり方についても、多少の勘違いが時々あるような気がします。やはり試合に臨む時の心構えとしては、いつも「勝ち」を意識し勝つためにプレイするのが常道だと思います。ここで「勝ち」を意識しないでプレイをしてしまうと、もはや競技スポーツではなくレクレーションとしてのスポーツになってしまいます。「勝ち」の意識がないと、せっかくの上手いトラップやパス回しも時にはただの曲芸になってしまう可能性さえあります。試合の時も練習の時も、常に「勝ち」を意識してプレイしてこそ、おもしろいのであり上達するのではないでしょうか。「勝ち」を意識してプレイすることは、すなわち真剣にプレイすることでもあり、怪我の予防にも繋がる気がします。
「勝ち」にこだわる必要がないというのは、例えば、足の速い選手をフォワードに置き、後ろからロングパス1本だけでゴールを狙うというような戦術だけで十分に勝てる場合に、それだけしかやらず、ショートパスをつなぐようなサッカーにはチャレンジしないといったようなことでしょうか。これでは、その年代に習得しておいた方がよい他のスキルを身につけるチャンスが失われてしまいます。こうしたとき、「勝ち」にこだわることなく、結果として「負け」ても新しいスキルの習得を優先させた方が価値があることでしょう。試合や練習のプレイに当たっては常に「勝ち」にこだわることが大事ですが、その結果については「勝ち」にこだわる必要はないということですね。
しかし、親ばか観戦者の立場からすれば、練習試合はいいとしても、大会試合などにおいては、やはり結果としての「勝ち」も期待できるプレイと戦術をもって臨んでもらいたくなってしまいます。(2006年1月)
指導者たちがいうところの「勝ちにこだわるのは間違っている」の趣旨は、将来もずっとサッカーを続けていくとした場合、今すぐに花を咲かせることに目を向けるのではなく、将来を考え、今はしっかりと種を蒔き、肥料を加えることの方が大事であり、それがやがては大きな花を咲かせ実を結ぶであろうということでしょうか。
このような将来を見据えた育成の考え方は、青少年の教育としては一般的な考え方ですので理解しやすいところですが、多少、大上段に構えた考え方でもあるので、サッカーはただ単に子供に体力を付けさせたいためにやらせているだけだとか、サッカーは小学生までで中学生になったら違うスポーツをやるつもりだとか等、あまりサッカーに思い入れの深くない選手や保護者にしてみれば、「なにもそこまで考えてもらわなくてもいい。今、サッカーを楽しめればいい。」ということにもなろうかと思います。月謝を払って通っているようなクラブチームの選手や保護者なら受け入れやすいでしょうが、様々な思惑の選手が集まるスポーツ少年団にいたっては、ケースバイケースかも知れません。ですから一律に「勝ちにこだわるのは間違っている」という考え方を押し付けてしまうと、失敗しそうな気がします。
また、「勝ち」へのこだわり方についても、多少の勘違いが時々あるような気がします。やはり試合に臨む時の心構えとしては、いつも「勝ち」を意識し勝つためにプレイするのが常道だと思います。ここで「勝ち」を意識しないでプレイをしてしまうと、もはや競技スポーツではなくレクレーションとしてのスポーツになってしまいます。「勝ち」の意識がないと、せっかくの上手いトラップやパス回しも時にはただの曲芸になってしまう可能性さえあります。試合の時も練習の時も、常に「勝ち」を意識してプレイしてこそ、おもしろいのであり上達するのではないでしょうか。「勝ち」を意識してプレイすることは、すなわち真剣にプレイすることでもあり、怪我の予防にも繋がる気がします。
「勝ち」にこだわる必要がないというのは、例えば、足の速い選手をフォワードに置き、後ろからロングパス1本だけでゴールを狙うというような戦術だけで十分に勝てる場合に、それだけしかやらず、ショートパスをつなぐようなサッカーにはチャレンジしないといったようなことでしょうか。これでは、その年代に習得しておいた方がよい他のスキルを身につけるチャンスが失われてしまいます。こうしたとき、「勝ち」にこだわることなく、結果として「負け」ても新しいスキルの習得を優先させた方が価値があることでしょう。試合や練習のプレイに当たっては常に「勝ち」にこだわることが大事ですが、その結果については「勝ち」にこだわる必要はないということですね。
しかし、親ばか観戦者の立場からすれば、練習試合はいいとしても、大会試合などにおいては、やはり結果としての「勝ち」も期待できるプレイと戦術をもって臨んでもらいたくなってしまいます。(2006年1月)
この世の中暗いニースが多いですが、このサイトとても熱く語っていますね。
凄いです・・・・!がんばれ・・・!地域社会・・・!
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子供が主人公です。大人はその環境をどう変えるか?
どうサポートするか?鍵でしょうね。
貴重なご意見有難う御座います。
どうサポートするか?鍵でしょうね。
貴重なご意見有難う御座います。
とてもすばらしいご意見です。
人に応援されるチーム 人に感動を与えるサッカー目指せ!
人に応援されるチーム 人に感動を与えるサッカー目指せ!
くどすぎる!
小禄キッカーズが強いに決まってる!!
。サッカーが人気だからといって、ただ闇雲にサッカーやりたい子供を集め、チームを作っていては、いいチームはでき上がらない。子供の保護者に対して、指導者としての理念をきちんと伝えられるような組織、チームに関わるそれぞれの人の役割分担の明確化など、チームを組織として構成する上で甘い部分があるようでは、「指導の理念」は徹底されないのである。特にこの組織づくりの上で問題が生じていると、チームを取り巻く人々の認識不足という、指導における問題を引き起こす原因を導くことになる。したがって、この組織づくりに着目していく必要がある。
ところが、これによって矛盾も生じてしまうのである。これだけに充実した組織をつくるには、監督の強力なリーダーシップが必要となるし、それだけ充実させた組織を運営していくためには、強力なマネジメント能力も必要となる。そうしたリーダーの影響力は、サッカーそのものの指導においては、「指導の理念」から考える限り、あまり必要ではない。指導における影響力は、「監督」という肩書きからくる、「権威」的な影響力となりかねないからだ。そしてそのような影響力は、サッカーをしているときの子供にとっては、束縛の原因となる。その結果、サッカーのプレーをルーティン化させ、子供のプレーにおける創造性や、「こうやってみたい」という意欲の妨げになってしまうのだ。
こうしたチームの外的、内的問題には、共通の根本的問題がある。それが文化的問題である。それはつまり、チームをとりまくあらゆる要素に「勝利至上主義」という文化が蔓延しているということである。それがチームにもたらされ、チームの組織文化として、様々な問題やギャップを引き起こすのである。組織文化とは、その組織に支配的となっている考え方や雰囲気、価値、あるいは規則など目に見えない意識の部分から目に見えるものまで含め、それらすべてを指すのだが、この組織文化がチームという組織で形成されるには、リーダーの行動が大きく影響するとともに、それだけでなく、さまざまな内的、外的要因に影響される。つまり、「勝利至上主義」という組織文化は、構造上、あるいは管理の形態上、形成され、根付いてしまうということもあれば、もともとチームのメンバーの大半がそうした文化を持っていたために、「勝利至上主義」という意識が支配的になって、結果的に根付いてしまうということもある。私が考えるには、少年サッカーのチームの場合、組織構造と、メンバーの意識と、さらには前で述べたような様々な外的要因も影響した3重の相乗効果によって、「勝利至上主義」という組織文化は深く根付いてしまったのだと考えられる。
ところが、これによって矛盾も生じてしまうのである。これだけに充実した組織をつくるには、監督の強力なリーダーシップが必要となるし、それだけ充実させた組織を運営していくためには、強力なマネジメント能力も必要となる。そうしたリーダーの影響力は、サッカーそのものの指導においては、「指導の理念」から考える限り、あまり必要ではない。指導における影響力は、「監督」という肩書きからくる、「権威」的な影響力となりかねないからだ。そしてそのような影響力は、サッカーをしているときの子供にとっては、束縛の原因となる。その結果、サッカーのプレーをルーティン化させ、子供のプレーにおける創造性や、「こうやってみたい」という意欲の妨げになってしまうのだ。
こうしたチームの外的、内的問題には、共通の根本的問題がある。それが文化的問題である。それはつまり、チームをとりまくあらゆる要素に「勝利至上主義」という文化が蔓延しているということである。それがチームにもたらされ、チームの組織文化として、様々な問題やギャップを引き起こすのである。組織文化とは、その組織に支配的となっている考え方や雰囲気、価値、あるいは規則など目に見えない意識の部分から目に見えるものまで含め、それらすべてを指すのだが、この組織文化がチームという組織で形成されるには、リーダーの行動が大きく影響するとともに、それだけでなく、さまざまな内的、外的要因に影響される。つまり、「勝利至上主義」という組織文化は、構造上、あるいは管理の形態上、形成され、根付いてしまうということもあれば、もともとチームのメンバーの大半がそうした文化を持っていたために、「勝利至上主義」という意識が支配的になって、結果的に根付いてしまうということもある。私が考えるには、少年サッカーのチームの場合、組織構造と、メンバーの意識と、さらには前で述べたような様々な外的要因も影響した3重の相乗効果によって、「勝利至上主義」という組織文化は深く根付いてしまったのだと考えられる。
目指す少年の指導に対する指導者以外の者の誤認や外部の影響力である。それは子供の誤認であるとか、あるいは子供の親、つまり保護者の誤認といったような、チームをとりまく周囲の人々の「勝つ」ことと「育てる」ことのうち、「勝つ」ことを優先してしまうという誤認なのである。また、Jリーグはプロであるので「勝つ」ことを要求されている。少年の大会も様々に開催され、そこにはタイトルが設けられており、そのためには「勝つ」ことが要求される。しかし、それによって子供、あるいはその親が、少年サッカーに対しても「勝つ」ことが要求されていると錯覚を起こしてしまうのである。つまり少年サッカーで勝つにはどうしたら勝てるのかばかりを考えてしまっている。さきほど取り上げた「少年サッカーの指導」でも述べられていたが、ボールキープやドリブル、フェイントといった技術はそこそこでも、ディフェンスは高く大きく蹴れて、フォワードは足が早く、体格の良い選手をそろえ、足の早さで縦の攻撃が早くできるチームであれば、ある程度の大会は制覇できる。ところが、技術やセンスを問われるJリーグのジュニアユースには、そうしたチームの選手からはなかなか合格者は出ないのである。逆に、技術を徹底して磨いているチームでは、試合に勝つことはあっても、勝つためだけにプレーするということはない。何が試合のなかで何がいいプレーなのかを追求するため、試合の勝利云々より、それぞれの個人レベルに合わせた課題の克服が重要視される。それが高いレベルで意識され、積極的に個人の課題を克服していった選手のなかから、最終的にはプロを目指すようなクラブ合格者も出ている。
チームをとりまく人々の中にはサッカーに必要な要素がなんであるかということなど知らない人も少なくない。その要素とは、メンタリティ(心的要素)、技術、戦術、体力、さらにはルールの理解も含まれるがまず最低その5つである。そのうち、戦術はその選手が子供のうちからそのポジションに落ち着くわけでもなければ、監督によっても選手の効果的な使い方、動かし方はさまざまに異なるであろうし、体力は体の成長などから年代によってトレーニングの仕方はまったく異なってくる。 少年期からずっと磨き続けなければならないもの、最も一貫して要求されるのはメンタリティと、技術の要素である。ということは、サッカーというスポーツのため、つまり日本サッカー界のためには、子供の意欲を妨げぬよう十分に注意を払いながら、自由に楽しくサッカーをさせて、その中で技術を常に磨かせることがもっとも重要な目標であるのだ。こうして考える限り「いかに子供たちがサッカーに必要な技術を身につけられたか」「子供達がいかに楽しく自由にサッカーを楽しめたか」ということが要求されるのである。これは別にチームが負ければよいと言っているのではない。技術が身につかないうちから、勝利云々は語れないと言うことなのである。技術が向上すれば当然「勝ち」への意識は強くなる。また、勝つことが楽しさの要素にもなり得る。だからこそ技術の向上と、サッカーをすることの楽しさが条件として満たされた上でならば、結果としての勝利は認めていいのである。チームは勝ってもいいのである。したがって、「勝利至上主義」をチームから排除することと、サッカーの観点から考えた「技術至上主義」への転換と、少年育成の観点から考えた「楽しさ至上主義」への転換が求められることになるのである。
しかしながら残念なことに、そういう現実、真実は依然子供やその親たちには理解されていない。それぞれ、どう考えているのだろうか。
まず、子供はどう考えるか。子供の立場から考えて見れば、確かにただ強いだけのクラブであっても入ってみたいと子供は考えるかもしれない。Jリーグを見ていたり、大会も頻繁に開催されるので、「強いチームはかっこいいから」というような、「勝つ」ことによる優越感とか、「勝つ」ことのうれしさ、楽しさ等から、理由も余計に強化される。しかしながら勝つために厳しく指導が行われ、サッカー自体が楽しめないのならば、長期的には、厳しい指導のためにだんだん上級性になるにつれて子供たちはやめてゆくことになり、子供にとっても、クラブ自体にとっても継続していきにくいのではないだろうか。勝つためにプレーするのは、それで生活していくプロである。クラブの子供たちは決してプロではない。それならば、「勝利至上主義」的に指導する必要はないのである。子供にはそれが分からず、闇雲に勝つことを求めてしまうのである。
親の立場から考えて見ると、クラブに入れるからには、自分の子供の心と体を強くたくましいものにしたいとか、友達をつくり、道徳心を育てることで「社会性」を身につけさせたいと考えるだろう。子供がスポーツを通じてもっと丈夫に育って欲しいとか社会生活に必要なルールやマナーを身につけて欲しいという願いを持つ親は多いであろう。
しかしながら、親の立場としての動機と子供の動機は違ってくる。大人の価値観や大人の理論、文化の押し付けは、必ずしも子供に対していい結果を与えるとは言えない。厳しく躾てもらいたいがために、「ビシバシ仕込んでやってください」などと指導者に話す親もいるのが実際である。それで躾だけでなく、指導まで厳しいクラブに入れてしまうのではおかしいのである。また、親の動機とサッカー界の考え方にも隔たりがある。今までの指導ではサッカーの発展のために、いや、それは見せかけであって、実はチームの勝利のために、たくさんの子供達が厳しい指導の犠牲になっているのだ。「燃え尽き症候群」といわれているのがその象徴である。それは、上に進むにしたがって、サッカーを楽しむことができずに、意欲を失っていってしまう選手のことを示している。こうした選手の上に立つ指導者は、サッカーそのものや、チームの勝つことにばかり目がいってしまい、少年の指導における、子供の心身の健やかな成長や、健全育成という観点をほぼ失ってしまっている。そうした状況が理解されずに親たちは、厳しい指導をクラブの指導者に要求するのである。さらには、試合の応援をする親が、子供に勝ってほしい(いや、自分の子供のいるチームが勝ってほしいという親の見栄なのかもしれないが)と願うあまりに、やたらにはしゃいだり、加熱ぎみの応援をすることがある。このような状況では、子供達の健全な育成に少年サッカーが役に立っているとは考えにくい。逆に、指導者が高い理念を持っていても、周囲の意識が改革されなければ、簡単には勝利至上主義からは抜け出せないのである。そして、結局は望ましい少年サッカーの指導、育成、少年の健全育成にはたどりつかないということになるのだ。
第2にこのような原因がある。市販の少年サッカーの指導書には、技術を上げる練習や、技術解説などは細かく、しかも図説まで加えて詳細に書いてあるが、子供の心理的な面や体の成長面にまで深く掘り下げてどう指導するのか書いてあるものは依然として少ない。言い換えれば、子供の心理などを良く考えることによって、うまく個人の能力を引き出すような指導法が、具体的に提示されている指導書があまりに少ないのである。結局、指導書でとりあげられている練習が子供の指導においてなぜ必要なのか、どうして有効なのかと考えられずに、ただ「勝つ」ために行われてしまうことになるのだ。チームの中で行われていることが、意欲や動機づけといった、そこに現実に起こっている子供の心理的作用に気付かずに進められることになるのである。
そして第3に、ほかのチームの指導者との情報交換がなかったり、指導者の育成の場があまりにも少ないという原因もある。市のサッカー協会主催の春季や秋季の大会では月に1度各チームの監督が集まって会議が行われるが、話し合いの内容は大体、市の大会のスケジュール調整や、確認などがほとんどで、チームの活動報告や、技術交流のための話し合いなどが行われることはほとんどない。チームが「勝つ」ためには、敵となる他のチームに指導の技術や、情報を提供することが、即不利益をもたらすからである。そのため、お互いに指導の技術に関してはチームが固く殻を閉ざしてしまう。それならばいっそ、協会が公に一流の指導者を招いて、指導者講習会や技術講習会を開けば良いと考えるであろう。しかしながら、サッカー協会主催の指導者講習会も、実際に監督をしている方には何らかの連絡があるとしても、公に参加者を募って開催されることは現在の状況においては存在しない。選手の強化体制は充実してきているというのに、依然として指導者の育成は進められてはいないのである
チームをとりまく人々の中にはサッカーに必要な要素がなんであるかということなど知らない人も少なくない。その要素とは、メンタリティ(心的要素)、技術、戦術、体力、さらにはルールの理解も含まれるがまず最低その5つである。そのうち、戦術はその選手が子供のうちからそのポジションに落ち着くわけでもなければ、監督によっても選手の効果的な使い方、動かし方はさまざまに異なるであろうし、体力は体の成長などから年代によってトレーニングの仕方はまったく異なってくる。 少年期からずっと磨き続けなければならないもの、最も一貫して要求されるのはメンタリティと、技術の要素である。ということは、サッカーというスポーツのため、つまり日本サッカー界のためには、子供の意欲を妨げぬよう十分に注意を払いながら、自由に楽しくサッカーをさせて、その中で技術を常に磨かせることがもっとも重要な目標であるのだ。こうして考える限り「いかに子供たちがサッカーに必要な技術を身につけられたか」「子供達がいかに楽しく自由にサッカーを楽しめたか」ということが要求されるのである。これは別にチームが負ければよいと言っているのではない。技術が身につかないうちから、勝利云々は語れないと言うことなのである。技術が向上すれば当然「勝ち」への意識は強くなる。また、勝つことが楽しさの要素にもなり得る。だからこそ技術の向上と、サッカーをすることの楽しさが条件として満たされた上でならば、結果としての勝利は認めていいのである。チームは勝ってもいいのである。したがって、「勝利至上主義」をチームから排除することと、サッカーの観点から考えた「技術至上主義」への転換と、少年育成の観点から考えた「楽しさ至上主義」への転換が求められることになるのである。
しかしながら残念なことに、そういう現実、真実は依然子供やその親たちには理解されていない。それぞれ、どう考えているのだろうか。
まず、子供はどう考えるか。子供の立場から考えて見れば、確かにただ強いだけのクラブであっても入ってみたいと子供は考えるかもしれない。Jリーグを見ていたり、大会も頻繁に開催されるので、「強いチームはかっこいいから」というような、「勝つ」ことによる優越感とか、「勝つ」ことのうれしさ、楽しさ等から、理由も余計に強化される。しかしながら勝つために厳しく指導が行われ、サッカー自体が楽しめないのならば、長期的には、厳しい指導のためにだんだん上級性になるにつれて子供たちはやめてゆくことになり、子供にとっても、クラブ自体にとっても継続していきにくいのではないだろうか。勝つためにプレーするのは、それで生活していくプロである。クラブの子供たちは決してプロではない。それならば、「勝利至上主義」的に指導する必要はないのである。子供にはそれが分からず、闇雲に勝つことを求めてしまうのである。
親の立場から考えて見ると、クラブに入れるからには、自分の子供の心と体を強くたくましいものにしたいとか、友達をつくり、道徳心を育てることで「社会性」を身につけさせたいと考えるだろう。子供がスポーツを通じてもっと丈夫に育って欲しいとか社会生活に必要なルールやマナーを身につけて欲しいという願いを持つ親は多いであろう。
しかしながら、親の立場としての動機と子供の動機は違ってくる。大人の価値観や大人の理論、文化の押し付けは、必ずしも子供に対していい結果を与えるとは言えない。厳しく躾てもらいたいがために、「ビシバシ仕込んでやってください」などと指導者に話す親もいるのが実際である。それで躾だけでなく、指導まで厳しいクラブに入れてしまうのではおかしいのである。また、親の動機とサッカー界の考え方にも隔たりがある。今までの指導ではサッカーの発展のために、いや、それは見せかけであって、実はチームの勝利のために、たくさんの子供達が厳しい指導の犠牲になっているのだ。「燃え尽き症候群」といわれているのがその象徴である。それは、上に進むにしたがって、サッカーを楽しむことができずに、意欲を失っていってしまう選手のことを示している。こうした選手の上に立つ指導者は、サッカーそのものや、チームの勝つことにばかり目がいってしまい、少年の指導における、子供の心身の健やかな成長や、健全育成という観点をほぼ失ってしまっている。そうした状況が理解されずに親たちは、厳しい指導をクラブの指導者に要求するのである。さらには、試合の応援をする親が、子供に勝ってほしい(いや、自分の子供のいるチームが勝ってほしいという親の見栄なのかもしれないが)と願うあまりに、やたらにはしゃいだり、加熱ぎみの応援をすることがある。このような状況では、子供達の健全な育成に少年サッカーが役に立っているとは考えにくい。逆に、指導者が高い理念を持っていても、周囲の意識が改革されなければ、簡単には勝利至上主義からは抜け出せないのである。そして、結局は望ましい少年サッカーの指導、育成、少年の健全育成にはたどりつかないということになるのだ。
第2にこのような原因がある。市販の少年サッカーの指導書には、技術を上げる練習や、技術解説などは細かく、しかも図説まで加えて詳細に書いてあるが、子供の心理的な面や体の成長面にまで深く掘り下げてどう指導するのか書いてあるものは依然として少ない。言い換えれば、子供の心理などを良く考えることによって、うまく個人の能力を引き出すような指導法が、具体的に提示されている指導書があまりに少ないのである。結局、指導書でとりあげられている練習が子供の指導においてなぜ必要なのか、どうして有効なのかと考えられずに、ただ「勝つ」ために行われてしまうことになるのだ。チームの中で行われていることが、意欲や動機づけといった、そこに現実に起こっている子供の心理的作用に気付かずに進められることになるのである。
そして第3に、ほかのチームの指導者との情報交換がなかったり、指導者の育成の場があまりにも少ないという原因もある。市のサッカー協会主催の春季や秋季の大会では月に1度各チームの監督が集まって会議が行われるが、話し合いの内容は大体、市の大会のスケジュール調整や、確認などがほとんどで、チームの活動報告や、技術交流のための話し合いなどが行われることはほとんどない。チームが「勝つ」ためには、敵となる他のチームに指導の技術や、情報を提供することが、即不利益をもたらすからである。そのため、お互いに指導の技術に関してはチームが固く殻を閉ざしてしまう。それならばいっそ、協会が公に一流の指導者を招いて、指導者講習会や技術講習会を開けば良いと考えるであろう。しかしながら、サッカー協会主催の指導者講習会も、実際に監督をしている方には何らかの連絡があるとしても、公に参加者を募って開催されることは現在の状況においては存在しない。選手の強化体制は充実してきているというのに、依然として指導者の育成は進められてはいないのである
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