往年の名選手 [1275]
作成者:大胆細心
作成日時:2005/03/08 17:05:08
これまで沖縄からはプロ野球選手が延べ40人以上誕生していますが、プロ、アマ問わず、沖縄県民を熱狂の渦に巻き込んだ選手は数え切れません。
まだ沖縄の高校野球のレベルが低かったころから今日に至るまで、みなさんの記憶に残る名選手をここで紹介してください。
投稿メッセージを表示( 1275 件中 391 件 〜 405 件目)
最悪のコンクリートスタンド
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売店のカキ氷
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ベンチも低くて難儀だった
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内野から芝生への階段のあったあの球場のこと
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俺もそう思っていた。
俺もそう思っていた。
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ジジイだけだな
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昔の奥武山球場のほうが趣きがあってよかったと言う人もいる。
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当時の球児からしたらセルラースタジアムの立派な球場で試合ができるのは
夢のようなことだな
大勢の観客の前で試合をする甲子園球場だとまともな精神状態ではない緊張でしっぱなし連続
だっただろうな
夢のようなことだな
大勢の観客の前で試合をする甲子園球場だとまともな精神状態ではない緊張でしっぱなし連続
だっただろうな
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ネットや雑誌ではなく
新聞社や図書館にパソコンで当時の新聞を閲覧することができるのかな
そしたらコピーして
ここで紹介してもらえるかな
新聞社や図書館にパソコンで当時の新聞を閲覧することができるのかな
そしたらコピーして
ここで紹介してもらえるかな
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往年の名選手といえば鳥掘のエースだった城間、一塁手の比嘉、遊撃手の瀬底。
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固有の領土なかね、
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宮古水産から宮古製糖を経てプロテストを受けた後、東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団した下地恵清投手を知っている人は少ないと思われる。
下地投手は宮古出身初のプロ野球選手で、プロ在籍は3年と短かったが、沖縄出身のプロ野球選手がほとんどいなかった時代に希望を与えてくれた。
プロ引退後は警察官になり神奈川県で少年野球チームを指導していたといわれているが、その後、交通事故に遭い、若くして亡くなられたのが悔やまれる。
下地投手は宮古出身初のプロ野球選手で、プロ在籍は3年と短かったが、沖縄出身のプロ野球選手がほとんどいなかった時代に希望を与えてくれた。
プロ引退後は警察官になり神奈川県で少年野球チームを指導していたといわれているが、その後、交通事故に遭い、若くして亡くなられたのが悔やまれる。
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固有領土くんがここで叫んでる
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1965年のドラフトで広島から10位で指名されたもののプロ入りを拒否した石原昌美という投手を知っている人も少ないと思う。
石原投手は中部工出身で、琉球電電(現NTT西日本)で社会人野球の選手としてプレーしていた。
沖縄出身の野球選手でドラフト指名されながらプロ入りを拒否したのは石原さんただ一人。
石原投手は中部工出身で、琉球電電(現NTT西日本)で社会人野球の選手としてプレーしていた。
沖縄出身の野球選手でドラフト指名されながらプロ入りを拒否したのは石原さんただ一人。
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固有領土くんの883。
議員の親祖父のお金で生きている
議員の親祖父のお金で生きている
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