往年の名選手 [1275]
作成者:大胆細心
作成日時:2005/03/08 17:05:08
これまで沖縄からはプロ野球選手が延べ40人以上誕生していますが、プロ、アマ問わず、沖縄県民を熱狂の渦に巻き込んだ選手は数え切れません。
まだ沖縄の高校野球のレベルが低かったころから今日に至るまで、みなさんの記憶に残る名選手をここで紹介してください。
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1968年に中部農林からヤクルトに入団した上地英満、1974年にロッテに入団した上田正則(那覇商→沖縄大)、1975年にロッテに入団した池畑満也(浦添→沖縄大)など、沖縄からはドラフト外で入団した選手が結構います。
他には1979年に大洋に入団した前泊哲明(興南→日産自動車横浜)、1981年にヤクルトに入団した森長隆(八重山)、武内正行(八重山)、1982年に広島に入団した金城鉄治(沖縄水産)、新島修(美里)、1984年に南海に入団した平川敏明(興南)、1986年に大洋に入団した名幸一明(興南)といった選手たちがドラフト外でプロ入りしました。
興南から南海(現ソフトバンク)に入団した平川敏明投手は兵庫県からの野球留学生で、高校時代、公式戦での登板経験はなかったのですが、それでもドラフト外でプロ入りしています。
また、同じく興南から大洋(現横浜)に入団した名幸一明選手は現在、プロ野球の審判員として活躍されていますが、高校時代はプロで活躍したデ二ー友利投手とバッテリーを組んでいたことでも知られています。
沖縄大からは2年連続で上田正則投手(1974年)と池畑満也選手(1975年)がロッテにドラフト外で入団していますが、沖縄大は1972年と1973年に全国大学準硬式野球選手権大会で全国制覇を達成していて、両選手とも当時、無敵を誇った沖縄大の中心選手でした。
沖縄大は1974年にも準優勝しています。
他には1979年に大洋に入団した前泊哲明(興南→日産自動車横浜)、1981年にヤクルトに入団した森長隆(八重山)、武内正行(八重山)、1982年に広島に入団した金城鉄治(沖縄水産)、新島修(美里)、1984年に南海に入団した平川敏明(興南)、1986年に大洋に入団した名幸一明(興南)といった選手たちがドラフト外でプロ入りしました。
興南から南海(現ソフトバンク)に入団した平川敏明投手は兵庫県からの野球留学生で、高校時代、公式戦での登板経験はなかったのですが、それでもドラフト外でプロ入りしています。
また、同じく興南から大洋(現横浜)に入団した名幸一明選手は現在、プロ野球の審判員として活躍されていますが、高校時代はプロで活躍したデ二ー友利投手とバッテリーを組んでいたことでも知られています。
沖縄大からは2年連続で上田正則投手(1974年)と池畑満也選手(1975年)がロッテにドラフト外で入団していますが、沖縄大は1972年と1973年に全国大学準硬式野球選手権大会で全国制覇を達成していて、両選手とも当時、無敵を誇った沖縄大の中心選手でした。
沖縄大は1974年にも準優勝しています。
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へぇ~。以上!
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で、プロでの実績は?
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プロになれるのは数万人に1人だからプロになれること自体がすごいこと。
プロになれない人がほとんど。
プロになれない人がほとんど。
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だな
元プロそれだけでも尊敬に値する
元プロそれだけでも尊敬に値する
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来世はプロ野球選手か、世界6階級チャンピオンになりたいな。
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来世は総理大臣か沖縄県知事になりたい。
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頑張ってください。
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プロ野球選手になりたい夢をもつ少年はいっぱいいでも、
現実にプロ選手になろうと決断する人は少ない。
現実にプロ選手になろうと決断する人は少ない。
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「伝説の投手、沢村栄治は165キロ以上出していた」と元巨人の青田昇が証言していたことがあるし、元広島の達川も「江川のストレートは160キロを優に超えていた」と証言している。
当時はスピードガンがない時代だったが、球速を160キロに設定して打席に立った青田昇が「沢村栄治のストレートはこれよりまだ速かった」とはっきり言っていた。
達川も「高校時代の江川のストレートは間違いなく160キロを超えていた」と言っていた。
当時はスピードガンがない時代だったが、球速を160キロに設定して打席に立った青田昇が「沢村栄治のストレートはこれよりまだ速かった」とはっきり言っていた。
達川も「高校時代の江川のストレートは間違いなく160キロを超えていた」と言っていた。
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そりゃそうでしょ。
プロ野球選手になれるのは数万人に1人なんだから。
そりゃそうでしょ。
プロ野球選手になれるのは数万人に1人なんだから。
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金田正一 180キロ
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元東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の下地恵清という投手を知っている人は少ないだろうな。
下地さんは宮古水産出身で、宮古精糖という社会人野球チームを経てプロテストに合格して東京オリオンズに入団した投手。
プロ生活は短かったが、沖縄出身のプロ野球選手が珍しかった時代だから地元の期待は大きかったと思う。
プロ引退後は警察官になり、長野県で少年野球チームを指導していたようだが、その後、交通事故に遭い、不慮の死を遂げている。
下地さんは宮古水産出身で、宮古精糖という社会人野球チームを経てプロテストに合格して東京オリオンズに入団した投手。
プロ生活は短かったが、沖縄出身のプロ野球選手が珍しかった時代だから地元の期待は大きかったと思う。
プロ引退後は警察官になり、長野県で少年野球チームを指導していたようだが、その後、交通事故に遭い、不慮の死を遂げている。
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野球の進化止まらず
球速があがって
高校生でも150キロは驚かなくなった
伝説の投手
沢村英治
実際は140キロ前後が妥当
球速があがって
高校生でも150キロは驚かなくなった
伝説の投手
沢村英治
実際は140キロ前後が妥当
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ちなみに下地恵清投手がプロ入りしたのは1965年だから今から54年も前ということになる。
沖縄出身のプロ野球選手第1号は金城政夫で、2人目は安仁屋宗八。
下地恵清投手が沖縄出身3人目のプロ野球選手だった。
沖縄出身のプロ野球選手第1号は金城政夫で、2人目は安仁屋宗八。
下地恵清投手が沖縄出身3人目のプロ野球選手だった。
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沢村栄治を特集したテレビ番組で元巨人の青田昇が「沢村栄治は165キロ以上出していた」と証言している。
実際に沢村栄治と対戦した青田昇が160キロに設定したマシンを相手に打席に立ち、「沢村栄治のストレートはこれよりもっと速かった」と言っていた。
沢村栄治を特集したテレビ番組で元巨人の青田昇が「沢村栄治は165キロ以上出していた」と証言している。
実際に沢村栄治と対戦した青田昇が160キロに設定したマシンを相手に打席に立ち、「沢村栄治のストレートはこれよりもっと速かった」と言っていた。
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1965年のドラフトで広島から10位で指名されたもののプロ入りを拒否した石原昌美という投手を知っている人も少ないと思う。
石原投手は中部工出身で、琉球電電(現NTT西日本)で社会人野球の選手としてプレーしていた。
沖縄出身の野球選手でドラフト指名されながらプロ入りを拒否したのは石原さんただ一人である。
石原投手は中部工出身で、琉球電電(現NTT西日本)で社会人野球の選手としてプレーしていた。
沖縄出身の野球選手でドラフト指名されながらプロ入りを拒否したのは石原さんただ一人である。
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後に大学後ソフトバンクに入団したが新垣渚も一度はオリックスを拒否してます。
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新垣渚の場合は希望の球団ではなかったから拒否したのであって石原さんのようにプロ入り自体を拒否したわけではない。
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新垣渚は希望球団とかじゃなく
大人の事情で大学進学!
大人の事情で大学進学!
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