往年の名選手 [1234]
作成者:大胆細心
作成日時:2005/03/08 17:05:08
これまで沖縄からはプロ野球選手が延べ40人以上誕生していますが、プロ、アマ問わず、沖縄県民を熱狂の渦に巻き込んだ選手は数え切れません。
まだ沖縄の高校野球のレベルが低かったころから今日に至るまで、みなさんの記憶に残る名選手をここで紹介してください。
投稿メッセージを表示( 1234 件中 1176 件 〜 1190 件目)
山内真之助もすばらしい野球センスの持ち主でした
0
スポンサーリンク
山内真之助もすばらしい野球センスの持ち主でした
0
僕は沖水世代なので、沖水の選手ばっかです。神谷、中村、城間、大城、屋良、大野。夏準優勝、この時の沖水を見て野球を始めた。大城に宮里、稲峯、黒島、なかんだり、この世代はいわゆる、松阪世代。全国的にもレベルが高く、選抜の時は西の横綱と呼ばれていた。宮里は夏の甲子園意外はずっとエースナンバーをつけていたし、埼玉栄戦も先発していたし、新垣よりはいい投手だった。大城は守備もすごく、送球が早い!歴代沖縄ナンバー1と言っていい程の野球センスのほちぬし。
1
スポンサーリンク
スレが何となく沖縄出身のみの気がしますがたまにはこういう方々も
数々の日本記録をもつ大投手です。私の人生の中で金田投手を越えた投手はいません
当時、天皇と呼ばれ、王、長嶋よりも輝いていたように思います。ピッチングどうこういう前に打者と各が違う。そんな感じでした。
金田投手の伝説の中にファールチップしたボールがキャッチャーマスクに挟まりとれなくなったていうのがあります(事実です)。その時のキャッチャーがこんなことがあるのかと不思議に思い、家に帰りカナヅチやら何やらでいろいろ押し込もうとしたらしいんですが結局出来なかったとか。
こういった出来事は後にも先にもこの時だけです。
とても凄い球だったんでしょうね。
数々の日本記録をもつ大投手です。私の人生の中で金田投手を越えた投手はいません
当時、天皇と呼ばれ、王、長嶋よりも輝いていたように思います。ピッチングどうこういう前に打者と各が違う。そんな感じでした。
金田投手の伝説の中にファールチップしたボールがキャッチャーマスクに挟まりとれなくなったていうのがあります(事実です)。その時のキャッチャーがこんなことがあるのかと不思議に思い、家に帰りカナヅチやら何やらでいろいろ押し込もうとしたらしいんですが結局出来なかったとか。
こういった出来事は後にも先にもこの時だけです。
とても凄い球だったんでしょうね。
0
あの時はこの戦力ではここまで勝つのはあたり前と思ってたけど、
神奈川桐蔭の、高木(大)、副島、高橋由伸、あのメンバーに
勝ったのはかなり素晴らしい!昭和49年生!
神奈川桐蔭の、高木(大)、副島、高橋由伸、あのメンバーに
勝ったのはかなり素晴らしい!昭和49年生!
1
スポンサーリンク
平良さんのシンカーは凄かった
電力時代は7種類位、球種あったよ
電力時代は7種類位、球種あったよ
0
平良投手もカーブを主体にしたいい投手でした
けして早くないがコントロール抜群
けして早くないがコントロール抜群
0
プレイバックさんの書き込みはいいですね。
自分は90年代からしか見てないですが、沖水糸数、浦商国仲、上間といったサウスポーが印象に残ってます。
あまり語られることがないようですが、96年に前原で甲子園出場した時の金城投手。やわらかいフォームから伸びのある球を投げ込み、素晴らしい投手だったと思います。
後にライオンズに入団した沖水の平良投手の高校時代はどのような感じだったでしょうか?
自分は90年代からしか見てないですが、沖水糸数、浦商国仲、上間といったサウスポーが印象に残ってます。
あまり語られることがないようですが、96年に前原で甲子園出場した時の金城投手。やわらかいフォームから伸びのある球を投げ込み、素晴らしい投手だったと思います。
後にライオンズに入団した沖水の平良投手の高校時代はどのような感じだったでしょうか?
0
沖縄水産時代、春夏を通じて4回も甲子園に出場し沖水全盛期を支えた快速球投手。
1985年の1年の夏からベンチ入りし、甲子園では3回戦の鹿児島商工戦でエースの安里投手をリリーフしたもののサヨナラ暴投で甲子園でビューを飾れず。1年生ながら快速球をビシビシ投げ込み観客をうならせる。
翌年の2年のセンバツでは1−3と初戦敗退したものの、上宮(大阪)戦で150キロ近い快速球を投げ、相手の監督から「聞きしに勝る好投手」と驚嘆の声が上がったほど。
その年の夏には2回戦で帯広三条(北北海道)を12−1、3回戦で京都商を14−0で破りベスト8に進出。しかし名門・松山商(愛媛)に3−4のサヨナラ負けを喫する。
翌年の5月に沖縄で行われた招待試合では、このとき敗れた松山商に7−2で勝ち、リベンジを果たした。
そして最後となった3年夏の甲子園。初戦で函館有斗(南北海道)を3−2で辛くも破り2回戦に勝ち進んだが、この大会で準優勝した常総学院(茨城)に0−7で敗れ、「上原晃の甲子園」は幕を下ろした。
しかし、それから2ヵ月後の10月に地元・沖縄で開催された「海邦国体」で常総学院と再び顔を合わせることとなり、3−2で沖水が雪辱を果たすことになる。
結局、この国体では決勝で帝京(東京)に敗れ準優勝に終わったが、その年のドラフトで中日から3位指名を受けプロ入りした。
1985年の1年の夏からベンチ入りし、甲子園では3回戦の鹿児島商工戦でエースの安里投手をリリーフしたもののサヨナラ暴投で甲子園でビューを飾れず。1年生ながら快速球をビシビシ投げ込み観客をうならせる。
翌年の2年のセンバツでは1−3と初戦敗退したものの、上宮(大阪)戦で150キロ近い快速球を投げ、相手の監督から「聞きしに勝る好投手」と驚嘆の声が上がったほど。
その年の夏には2回戦で帯広三条(北北海道)を12−1、3回戦で京都商を14−0で破りベスト8に進出。しかし名門・松山商(愛媛)に3−4のサヨナラ負けを喫する。
翌年の5月に沖縄で行われた招待試合では、このとき敗れた松山商に7−2で勝ち、リベンジを果たした。
そして最後となった3年夏の甲子園。初戦で函館有斗(南北海道)を3−2で辛くも破り2回戦に勝ち進んだが、この大会で準優勝した常総学院(茨城)に0−7で敗れ、「上原晃の甲子園」は幕を下ろした。
しかし、それから2ヵ月後の10月に地元・沖縄で開催された「海邦国体」で常総学院と再び顔を合わせることとなり、3−2で沖水が雪辱を果たすことになる。
結局、この国体では決勝で帝京(東京)に敗れ準優勝に終わったが、その年のドラフトで中日から3位指名を受けプロ入りした。
0
第1回招待野球試合が1974年5月、奥武山球場で行われました。
招待されたのは、その年のセンバツで全国制覇を果たした兵庫の報徳学園と夏の大会で全国制覇を果たした千葉の銚子商。
報徳学園は興南、首里と対戦し連勝、銚子商は読谷と対戦し銚子商が勝ちました。
雨の影響で、数試合が中止になったのは残念でしたが、沖縄で行われた初めての招待試合ということで大いに盛り上がりました。
特に、銚子商にはプロでも大活躍した篠塚選手(元巨人)や、土屋投手(元中日)がメンバーに含まれ、沖縄の球児にとってレベルの高い野球と接することができ、意義のあるものだったでしょう。
ちなみに、興南には後にプロ入りした前泊哲明投手(元横浜)がいました。
この招待試合はそれ以来毎年5月に行われ、30年以上にわたって続けられています。
招待されたのは、その年のセンバツで全国制覇を果たした兵庫の報徳学園と夏の大会で全国制覇を果たした千葉の銚子商。
報徳学園は興南、首里と対戦し連勝、銚子商は読谷と対戦し銚子商が勝ちました。
雨の影響で、数試合が中止になったのは残念でしたが、沖縄で行われた初めての招待試合ということで大いに盛り上がりました。
特に、銚子商にはプロでも大活躍した篠塚選手(元巨人)や、土屋投手(元中日)がメンバーに含まれ、沖縄の球児にとってレベルの高い野球と接することができ、意義のあるものだったでしょう。
ちなみに、興南には後にプロ入りした前泊哲明投手(元横浜)がいました。
この招待試合はそれ以来毎年5月に行われ、30年以上にわたって続けられています。
0
1972年夏に甲子園に出場した名護高校は栃木県の足利工に4−5で敗れ、惜しくも初戦敗退。
しかし、この試合で名護の5番・大城章幹選手が沖縄の選手として史上初めて甲子園球場でホームランを放ちました。
しかし、この試合で名護の5番・大城章幹選手が沖縄の選手として史上初めて甲子園球場でホームランを放ちました。
0
甲子園で沖縄の選手が選手宣誓をしたのは次の三人の方です。
1958年夏の首里高校・仲宗根弘主将、1960年春の那覇高校・牧志清順主将、1972年夏の名護高校・平安山良克主将。
1958年夏の首里高校は沖縄県勢初の甲子園出場を記念して、1960年春の那覇高校は沖縄県勢初のセンバツ出場を記念して、1972年の名護高校は沖縄の本土復帰を記念してそれぞれ選手宣誓の大役を任されたようです。
1958年夏の首里高校・仲宗根弘主将、1960年春の那覇高校・牧志清順主将、1972年夏の名護高校・平安山良克主将。
1958年夏の首里高校は沖縄県勢初の甲子園出場を記念して、1960年春の那覇高校は沖縄県勢初のセンバツ出場を記念して、1972年の名護高校は沖縄の本土復帰を記念してそれぞれ選手宣誓の大役を任されたようです。
0
元興南の金城博明選手。甲子園には出なかったけど、興南の主将で四番打者として活躍。身長194センチと沖縄の選手としてはこれ以上大きな選手は記憶にない。
高校時代には沖縄で開催された九州大会にも出場。奥武山球場で見た場外ホームランは圧巻だった。
その後、法政大→日立製作所でも中軸打者として活躍。都市対抗野球では東京ドームで特大ホームランを放ったり、スポニチ大会などでも150メートル級のホームランを打ったという伝説の超スラッガー。
PL学園で甲子園を沸かせた清原和博選手とは同年代だが、現役時代の金城選手は「沖縄の清原」といっても遜色ないほどの選手だった。
プロ入りした金城博和選手の弟。
高校時代には沖縄で開催された九州大会にも出場。奥武山球場で見た場外ホームランは圧巻だった。
その後、法政大→日立製作所でも中軸打者として活躍。都市対抗野球では東京ドームで特大ホームランを放ったり、スポニチ大会などでも150メートル級のホームランを打ったという伝説の超スラッガー。
PL学園で甲子園を沸かせた清原和博選手とは同年代だが、現役時代の金城選手は「沖縄の清原」といっても遜色ないほどの選手だった。
プロ入りした金城博和選手の弟。
0
このときのチームは「100メートル打線」といわれ、レギュラー全員が100メートル以上の打球を飛ばせることから名づけられたようです。
0
1980年夏、久々に甲子園に出場しベスト8まで勝ち進んだ興南は、ベンチ入りメンバーの平均身長が176センチ、レギュラー平均で177センチと甲子園出場校の中では最も大型チームだった。
当時のメンバーは、1番・ライト・石川吉和(177センチ)、2番・セカンド・比嘉昭夫(164センチ)、3番・センター・大城淳(177センチ)、4番・レフト・金城博和(185センチ)、5番・サード・渡真利克則(184センチ)、6番・キャッチャー・真栄田聡(172センチ)、7番・ファースト・慶田城広(177センチ)、8番・ショート・内間邦彦(176センチ)、9番・ピッチャー・竹下浩二(181センチ)。
その他に、玉寄尚(171センチ)、宮里幸男(180センチ)、砂川太(175センチ)、崎浜勝治(172センチ)、久場島清英(173センチ)、大見謝和裕(170センチ)。
このメンバーの体格を見て驚くのは、ベンチ入りメンバーの中で170センチに満たないのは一人だけで、あとは全員170センチ以上ということ。
当時の沖縄の選手は全国的に見ても小柄な選手が多く、1975年〜1978年にかけて豊見城全盛期を築いたチームでも平均身長が168センチしかないチームもあったほど。
豊見城全盛期のチームで最も大きかったのは、1975年春に出たチームと1977年夏に出たチームが平均身長172センチだった。
これを見ても分かるとおり、25年も前の興南がいかに大型選手をそろえたかがよく分かる。ちなみに歴代の沖縄県代表チームではこの1980年に甲子園出場した興南が最も大型チームだったともいえる。
このメンバーからは金城博和(元日本ハム)、渡真利克則(元阪神)、竹下浩二(元横浜)とプロ野球選手が3人も出たのをはじめ、東京六大学にも真栄田聡、内間邦彦が法政大、社会人にも大城淳が日産自動車、石川吉和がプリンスホテル、久場島清英が川崎製鉄千葉、玉寄尚が中山製鋼と、プロ、アマいずれも野球の名門といわれるところへ進んだ。
甲子園での戦績は以下の通り。
2回戦 興南7−2新湊(富山)
3回戦 興南14−0旭川大付(北北海道)
準々決勝 興南0−3早稲田実(東東京)
当時のメンバーは、1番・ライト・石川吉和(177センチ)、2番・セカンド・比嘉昭夫(164センチ)、3番・センター・大城淳(177センチ)、4番・レフト・金城博和(185センチ)、5番・サード・渡真利克則(184センチ)、6番・キャッチャー・真栄田聡(172センチ)、7番・ファースト・慶田城広(177センチ)、8番・ショート・内間邦彦(176センチ)、9番・ピッチャー・竹下浩二(181センチ)。
その他に、玉寄尚(171センチ)、宮里幸男(180センチ)、砂川太(175センチ)、崎浜勝治(172センチ)、久場島清英(173センチ)、大見謝和裕(170センチ)。
このメンバーの体格を見て驚くのは、ベンチ入りメンバーの中で170センチに満たないのは一人だけで、あとは全員170センチ以上ということ。
当時の沖縄の選手は全国的に見ても小柄な選手が多く、1975年〜1978年にかけて豊見城全盛期を築いたチームでも平均身長が168センチしかないチームもあったほど。
豊見城全盛期のチームで最も大きかったのは、1975年春に出たチームと1977年夏に出たチームが平均身長172センチだった。
これを見ても分かるとおり、25年も前の興南がいかに大型選手をそろえたかがよく分かる。ちなみに歴代の沖縄県代表チームではこの1980年に甲子園出場した興南が最も大型チームだったともいえる。
このメンバーからは金城博和(元日本ハム)、渡真利克則(元阪神)、竹下浩二(元横浜)とプロ野球選手が3人も出たのをはじめ、東京六大学にも真栄田聡、内間邦彦が法政大、社会人にも大城淳が日産自動車、石川吉和がプリンスホテル、久場島清英が川崎製鉄千葉、玉寄尚が中山製鋼と、プロ、アマいずれも野球の名門といわれるところへ進んだ。
甲子園での戦績は以下の通り。
2回戦 興南7−2新湊(富山)
3回戦 興南14−0旭川大付(北北海道)
準々決勝 興南0−3早稲田実(東東京)
2
77 | 78 | 79 | 80 | 81 | 82 | 83 | 前のページを表示 | 次の 15 件を表示 |