往年の名選手 [1234]
作成者:大胆細心
作成日時:2005/03/08 17:05:08
これまで沖縄からはプロ野球選手が延べ40人以上誕生していますが、プロ、アマ問わず、沖縄県民を熱狂の渦に巻き込んだ選手は数え切れません。
まだ沖縄の高校野球のレベルが低かったころから今日に至るまで、みなさんの記憶に残る名選手をここで紹介してください。
投稿メッセージを表示( 1234 件中 1016 件 〜 1025 件目)
新垣渚の場合は希望の球団ではなかったから拒否したのであって石原さんのようにプロ入り自体を拒否したわけではない。
0
スポンサーリンク
後に大学後ソフトバンクに入団したが新垣渚も一度はオリックスを拒否してます。
0
1965年のドラフトで広島から10位で指名されたもののプロ入りを拒否した石原昌美という投手を知っている人も少ないと思う。
石原投手は中部工出身で、琉球電電(現NTT西日本)で社会人野球の選手としてプレーしていた。
沖縄出身の野球選手でドラフト指名されながらプロ入りを拒否したのは石原さんただ一人である。
石原投手は中部工出身で、琉球電電(現NTT西日本)で社会人野球の選手としてプレーしていた。
沖縄出身の野球選手でドラフト指名されながらプロ入りを拒否したのは石原さんただ一人である。
0
スポンサーリンク
260
沢村栄治を特集したテレビ番組で元巨人の青田昇が「沢村栄治は165キロ以上出していた」と証言している。
実際に沢村栄治と対戦した青田昇が160キロに設定したマシンを相手に打席に立ち、「沢村栄治のストレートはこれよりもっと速かった」と言っていた。
沢村栄治を特集したテレビ番組で元巨人の青田昇が「沢村栄治は165キロ以上出していた」と証言している。
実際に沢村栄治と対戦した青田昇が160キロに設定したマシンを相手に打席に立ち、「沢村栄治のストレートはこれよりもっと速かった」と言っていた。
0
ちなみに下地恵清投手がプロ入りしたのは1965年だから今から54年も前ということになる。
沖縄出身のプロ野球選手第1号は金城政夫で、2人目は安仁屋宗八。
下地恵清投手が沖縄出身3人目のプロ野球選手だった。
沖縄出身のプロ野球選手第1号は金城政夫で、2人目は安仁屋宗八。
下地恵清投手が沖縄出身3人目のプロ野球選手だった。
0
スポンサーリンク
野球の進化止まらず
球速があがって
高校生でも150キロは驚かなくなった
伝説の投手
沢村英治
実際は140キロ前後が妥当
球速があがって
高校生でも150キロは驚かなくなった
伝説の投手
沢村英治
実際は140キロ前後が妥当
0
元東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の下地恵清という投手を知っている人は少ないだろうな。
下地さんは宮古水産出身で、宮古精糖という社会人野球チームを経てプロテストに合格して東京オリオンズに入団した投手。
プロ生活は短かったが、沖縄出身のプロ野球選手が珍しかった時代だから地元の期待は大きかったと思う。
プロ引退後は警察官になり、長野県で少年野球チームを指導していたようだが、その後、交通事故に遭い、不慮の死を遂げている。
下地さんは宮古水産出身で、宮古精糖という社会人野球チームを経てプロテストに合格して東京オリオンズに入団した投手。
プロ生活は短かったが、沖縄出身のプロ野球選手が珍しかった時代だから地元の期待は大きかったと思う。
プロ引退後は警察官になり、長野県で少年野球チームを指導していたようだが、その後、交通事故に遭い、不慮の死を遂げている。
0
金田正一 180キロ
0
255
そりゃそうでしょ。
プロ野球選手になれるのは数万人に1人なんだから。
そりゃそうでしょ。
プロ野球選手になれるのは数万人に1人なんだから。
0
「伝説の投手、沢村栄治は165キロ以上出していた」と元巨人の青田昇が証言していたことがあるし、元広島の達川も「江川のストレートは160キロを優に超えていた」と証言している。
当時はスピードガンがない時代だったが、球速を160キロに設定して打席に立った青田昇が「沢村栄治のストレートはこれよりまだ速かった」とはっきり言っていた。
達川も「高校時代の江川のストレートは間違いなく160キロを超えていた」と言っていた。
当時はスピードガンがない時代だったが、球速を160キロに設定して打席に立った青田昇が「沢村栄治のストレートはこれよりまだ速かった」とはっきり言っていた。
達川も「高校時代の江川のストレートは間違いなく160キロを超えていた」と言っていた。
0
100 | 101 | 102 | 103 | 104 | 105 | 106 | 107 | 108 | 109 | 前のページを表示 | 次の 10 件を表示 |