名選手 [211]
作成者:野球人
作成日時:2002/06/26 09:19:00
みんなで沖縄の歴史上で名選手を言おう!!!ちなみに自分は
沖縄水産の大城直也選手ですね!!かれはすばらしかった!!!
投稿メッセージを表示( 211 件中 56 件 〜 65 件目)
いろんな人の名前が載ってますね!私は高校時代マネージャーしてました。
南部だったんですが、結構いい選手いましたよ。
水産の選手は凄かったですね、でも糸満の樺島投手、南風原の宮平捕手、南風原の島尻一塁手、那覇商の金城捕手、水産の糸数投手
など今でも名前覚えてます!
みなさんまだ野球してるんですかね?
南部だったんですが、結構いい選手いましたよ。
水産の選手は凄かったですね、でも糸満の樺島投手、南風原の宮平捕手、南風原の島尻一塁手、那覇商の金城捕手、水産の糸数投手
など今でも名前覚えてます!
みなさんまだ野球してるんですかね?
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昭和51年生の名選手教えてください.
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1998年の選手権で那覇高校は全くのノーマークだったので僕のデータはありません。練習試合もした事がないのでどんな選手がいたのかも分からないです、お力になれなくてすいません・・・
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1998年度の大会について教えてください。この大会で
那覇高校が何十年ぶりくらいにベスト8進出しましたよね?
新聞の見出しに古豪復活と大きく載ったのを覚えておりますが
いい選手等いたのでしょうか?
わかる範囲でお願いいたします。
那覇高校が何十年ぶりくらいにベスト8進出しましたよね?
新聞の見出しに古豪復活と大きく載ったのを覚えておりますが
いい選手等いたのでしょうか?
わかる範囲でお願いいたします。
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赤嶺投手と石嶺選手は一緒には甲子園に出場してかったんですね、初めて知りました。しかも山形県に住んでいて、息子さんは対決した日大山形で野球をしてもう少しで甲子園に行けたんですかぁ・・・やはり子供は父のDNAをちゃんと受け継いでたんですね。僕はまだ結婚してませんが子供にはぜひ野球をしてもらいたいと思っています。僕が行けなかった甲子園に息子が連れていってくれたら幸せだなぁ・・・まだまだ先の話ですけどね。これからも沖縄県の高校野球を応援していきたいです。
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赤嶺賢勇投手は巨人に7年間在籍し、一軍での登板はほんのわずかでした。
プロ引退後は佐川急便に入り長距離トラックの運転手さんをやられているそうです。
現在は山形県に在住しており、赤嶺さんの長男は、かつて赤嶺さんが甲子園で戦った日大山形の選手として県大会の決勝まで進みました。
もう一息で親子二代にわたっての甲子園出場というところでしたが、最後は力尽き残念でした。
ちなみに、赤嶺さんと石嶺さんはお二人とも甲子園で活躍しましたが、一緒には甲子園には出ていません。
プロ引退後は佐川急便に入り長距離トラックの運転手さんをやられているそうです。
現在は山形県に在住しており、赤嶺さんの長男は、かつて赤嶺さんが甲子園で戦った日大山形の選手として県大会の決勝まで進みました。
もう一息で親子二代にわたっての甲子園出場というところでしたが、最後は力尽き残念でした。
ちなみに、赤嶺さんと石嶺さんはお二人とも甲子園で活躍しましたが、一緒には甲子園には出ていません。
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赤嶺賢勇投手の話は、両親や親戚の野球好きなおじさんおばさん達からよく耳にします。現中日の石嶺コーチと豊見城高校時代に甲子園で活躍されたんですよね。たしかその時は栽監督が指揮をとっていたとか。赤嶺賢勇投手は本格派でストレートに力があるピッチャーみたいな感じで聞いた事があります。巨人にドラフト指名されて入団したのですが、プロではなかなか結果を出せずに引退してしまったとか。プロにはどのくらい在籍してたのでしょうか?引退後も野球を続けたのか?現在は何をしてらっしゃるのか?知ってる人は教えて下さい。
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昭和50年代前半、全国に「豊見城旋風」を巻き起こした赤嶺賢勇さんが一番印象に残ります。赤嶺さんは2年春、3年春、夏と3回甲子園に出場し、豊見城を2度ベスト8に進出させた名投手でした。
特に2年の春には初戦で優勝候補といわれた習志野(千葉)を3−0の2安打完封。3回戦では日大山形を4−2で下し、準々決勝ではあの原辰徳(元巨人)がいた東海大相模と対戦。9回2死まで13個の三振を奪い、無得点に抑えていましたが、そこから連打を許し結局まさかの逆転負け(1−2)。
沖縄県民にとっても忘れられない悔しい試合として後世に語り継がれています。
この大会をきっかけに、赤嶺さんは全国から注目され、「沖縄の星」「甲子園のアイドル」とも呼ばれるようになり、雑誌の表紙に扱われたり週刊誌などでも紹介されるようになりました。
その当時、豊見城高校野球部はまさに芸能人顔負けの人気だったのをいまでも覚えています。
赤嶺賢勇さんは、沖縄が生んだ最大のスーパースターだったと言っても過言ではないでしょう。
特に2年の春には初戦で優勝候補といわれた習志野(千葉)を3−0の2安打完封。3回戦では日大山形を4−2で下し、準々決勝ではあの原辰徳(元巨人)がいた東海大相模と対戦。9回2死まで13個の三振を奪い、無得点に抑えていましたが、そこから連打を許し結局まさかの逆転負け(1−2)。
沖縄県民にとっても忘れられない悔しい試合として後世に語り継がれています。
この大会をきっかけに、赤嶺さんは全国から注目され、「沖縄の星」「甲子園のアイドル」とも呼ばれるようになり、雑誌の表紙に扱われたり週刊誌などでも紹介されるようになりました。
その当時、豊見城高校野球部はまさに芸能人顔負けの人気だったのをいまでも覚えています。
赤嶺賢勇さんは、沖縄が生んだ最大のスーパースターだったと言っても過言ではないでしょう。
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読谷のセンターだった小さい160ぐらいかな
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91年か92年頃の読谷のセンターの人。足が速くていかにも気が強そうな人
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