涙の初勝利
1963年の夏に甲子園に出場した首里高校は日大山形を4−3で下し、沖縄県勢として甲子園初勝利を挙げる。しかし、その試合は西宮球場で行われたため、正確には甲子園初勝利といえるのかどうか・・・。一応その試合が県勢初勝利として後世に伝えられている。
プレイバック
1回戦でPL学園(大阪)と対戦した首里は、PL学園のエース戸田投手から何と21個も三振を奪われ、ヒットもわずかに1本しか打てず8−0の完封負け。27アウトのうち21のアウトが三振という記録はいまだに破られない大会記録として残っていますが、この頃の沖縄の高校野球のレベルはまだ本土とかなり差があり、初戦敗退が当たり前という時代でした。
ちなみに戸田投手は、後に阪急ブレーブスに入りプロでも活躍しました。
WBC
大城直也はすごい立浪タイプあのバットコントロールは凄い沖水で一年生からレギュラーででてたのは先にも後にも大城意外いいない
共立までは順調にきてたが社会人になって伸び悩んでるようです
竹中
沖縄出身の野手で唯一プロで活躍したのが石嶺和彦氏。次にプロでも活躍出来る野手は大城直也だと思っていたが。。。あれぐらい力があっても何故プロから誘いが来ないのか理解出来ない。ここ数年沖縄高校生の中でプロの野手でやっていけると太鼓判押せる選手は私の目で確認出来なかった。これから先に石嶺氏、大城直也みたいな選手が出て来るのを期待してます。チバリヨ! 沖縄球児
1975年春 1回戦 豊見城3−0習志野(千葉)2回戦 豊見城4−2日大山形(山形)
準々決勝 豊見城1−2東海大相模(神奈川)
1976年春 1回戦 豊見城3−4土佐(高知)
1976年夏 2回戦 豊見城3−0鹿児島実(鹿児島)
3回戦 豊見城2−1小山(栃木)
準々決勝 豊見城0−1星稜(石川)
1977年春 1回戦 豊見城10−0酒田東(山形)
2回戦 豊見城0−10箕島(和歌山)
1977年夏 2回戦 豊見城9−2水島工(岡山)
3回戦 豊見城1−0広島商(広島)
準々決勝 豊見城3−8東洋大姫路(兵庫)
1978年春 1回戦 豊見城1−3桐生(群馬)
1978年夏 2回戦 豊見城3−2我孫子(千葉)
3回戦 豊見城4−1東筑(福岡)
準々決勝 豊見城5−6岡山東商(岡山)
甲子園出場春4回(4年連続)、夏3回(3年連続)、春ベスト8進出1回 夏ベスト8進出3回
震天動地
昭和33年(1958年)に沖縄代表として初めて甲子園に出場したチームは平均身長が162センチだったらしい。その頃に比べると約10センチも大きくなったということですね。
の
仲田秀司捕手。仲田幸司投手とバッテリーを組み、春1回、夏2回甲子園に出場。その年のドラフトで西武からドラフト5位指名を受ける。
肩の強さ、強気のリードを見て、当時の西武・広岡監督が絶賛した沖縄歴代ナンバーワン捕手。
魂知和
1968年の夏の甲子園で沖縄県勢初のベスト4進出の立役者、安次嶺投手。あのころの沖縄県勢は、1回戦敗退が当たり前の時代だったが、破竹の勢いで準決勝まで進出。
そのときのエース・安次嶺投手の奮闘抜きには語れないだろう。
.
沖縄県勢としてセンバツ大会(昭和46年)で初勝利を挙げたときの普天間のエース・玉城善則投手は名投手の一人。初戦で弘前(青森)を3−2で下し、2回戦ではその大会で優勝した日大三高に6−7で敗れたが、日大三高はそれ以外の試合ではすべて完封勝利。唯一、普天間だけに失点を許した。
玉城投手だけでなく、打線も活発だった。
その年の夏の大会では県大会で優勝し、甲子園出場をかけて南九州大会に出場したものの惜しくも都城農(宮崎)に0−1で惜敗。春夏連続甲子園出場はならなかった。
玉城投手は177センチあり、チームの平均身長が165センチという小柄な選手が多い当時としては飛びぬけて大きかった。
大胆細心
この人をおいて沖縄の高校野球を語ることはできないでしょう。昭和50年春、豊見城高校がセンバツに初出場し沖縄県勢として初めてベスト8に進出したときのエースです。
この大会では初戦で優勝候補の一角、習志野高校(千葉)を3−2の2安打完封。2回戦では日大山形を4−2で下し、準々決勝では超高校級スラッガー・原辰徳(元巨人)を擁する東海大相模(神奈川)と対戦。9回2死まで三振12個を奪い無得点に抑え、1−0とリードしながらその後連打を浴び、まさかの大逆転負けを喫しました。
この試合は、沖縄の高校野球史に残る名勝負のひとつに挙げられているほどです。
翌年の昭和51年のセンバツにも出場、初戦で土佐高校(高知)に3−4で敗れたものの、その年の夏の大会では鹿児島実を3−0、センバツ準優勝校の小山(栃木)を2−1と撃破し見事ベスト8に進出。準々決勝では惜しくも星稜(石川)に0−1で敗れました。
結局、赤嶺投手は3回甲子園に出場しましたが、このときの「豊見城旋風」で全国の高校野球ファンやマスコミが赤嶺投手を「沖縄の星」と称え、あらゆるメディアで紹介されるようになりました。そのときの人気のすごさは、アイドル歌手顔負けだったのを記憶しています。
その年のドラフトで赤嶺投手は、巨人から2位指名を受けプロ入りしました。
7年間のプロ生活では残念ながら芽が出ませんでしたが、地元・沖縄のテレビコマーシャルにも出演するなど、その人気と知名度はまさに「沖縄の星」そのもの。
赤嶺賢勇投手は、沖縄が生んだ最大のヒーローといっても過言ではありません。
大胆細心
1965年に東京オリオンズ(現千葉ロッテ)に入団した下地恵清投手は宮古水産高校の出身で、1961年7月、宮古水産が県大会で初めてベスト4に進出したときのメンバーです。卒業後、宮古製糖に入り強打者と鳴らしました。
その後、プロへの夢を胸に秘め、東京オリオンズの入団テストを受け見事合格。
しかし入団後すぐに肩を痛め、わずか1年で退団しました。
引退後は、神奈川県警の警察官となり県警野球クラブで野球を続けたそうです。
残念ながら、1987年11月20日、職務中の交通事故で他界されました。44歳の若さでした。
スポーツ内 新着トピ
2024/11/09 14:44:22
2024/11/09 14:15:34
2024/11/09 14:12:59
2024/11/09 14:11:13
2024/11/09 12:51:53
新着 全トピックス
2024/09/24 21:07:53
米海兵隊所属の20代兵士 性的暴行の疑いで書類送検 2024年09月05日(1)
2024/09/09 06:35:11
2024/11/09 14:44:22
2024/10/25 17:42:26
2024/11/04 20:35:43
北谷のSUNRISEです!ごーやー見たで、永久に使える弁当半額会員カードがもらえる!!(1)
2024/06/13 10:37:30
2024/03/15 01:02:54
2024/07/12 15:34:21
2024/03/09 21:47:31
スポンサーリンク
このカテゴリのアクセスランキング
カテゴリ一覧
新着トピック - 話題のトピックを見る!
その他沖縄の情報
Copyright(c) 2024 Goyah.net Inc.
All Rights Reserved.