匿名
1977年夏に豊見城が甲子園でベスト8入りしたときのメンバー1番 稲福
2番 比嘉
3番 新垣
4番 石嶺(元オリックス→阪神)
5番 国吉
6番 神里
7番 城間
8番 新里
9番 下地(元広島)
※比嘉、石嶺、神里は当時2年生。その他は3年生。
6番・神里は横浜DeNAベイスターズの神里和毅の父。
匿名
福岡の祐誠高校で監督を務めた金城清忠氏は沖縄出身で、沖縄が本土に復帰した1972年に東風平中から大阪のPL学園に進学。1974年夏、金城氏はPL学園の沖縄出身選手として初めて甲子園出場を果たした。
それ以降、PL学園の沖縄出身選手は甲子園に出場していない。
匿名
1974年に沖縄大学からロッテにドラフト外で2人入団している。当時の沖縄大学は準硬式野球部が強く、全国制覇を2度も達成していて、その時の主力選手2人がプロのスカウトの目に留まったようだ。
ちなみに、その当時の沖縄大学準硬式野球部には、のちに八重山商工の監督として甲子園に出場した伊志嶺吉盛さんもいた。
匿名
1971年夏の沖縄大会で優勝したのは普天間で、当時は宮崎大会の優勝校と甲子園への出場権をかけて宮崎と沖縄で交互に「南九州代表決定戦」が行われていた。その年の「南九州代表決定戦」は那覇の奥武山球場で行われ、宮崎大会で優勝した都城農が普天間を1-0で破り南九州代表として甲子園に出場した。
普天間は同年の選抜大会で沖縄県勢として初勝利を挙げたこともあってかなり期待されていたが、あと一歩のところで春夏連続甲子園出場はならなかった。
匿名
那覇市首里にある石嶺球場は首里高校野球部OBが出資して造られた球場。だから石嶺球場は首里高校野球部が使用している。
この球場ができたのは首里高校が沖縄県勢として初めて甲子園に出場した後だから1960年代のこと。
匿名
巨人で活躍した篠塚選手が銚子商の2年生のときに招待試合で沖縄に来ました。当時の銚子商は夏の甲子園で優勝したチームでしたが、その年の春季沖縄大会で優勝した読谷が銚子商と対戦して敗れましたが、3-0と善戦しました。
匿名
1965年のドラフトで広島から10位で指名されたもののプロ入りを拒否した石原昌美という投手を知っている人は少ないと思う。石原さんは中部工出身で、琉球電電(現NTT西日本)で社会人野球の選手としてプレーしていた。
沖縄出身の選手でドラフト指名されながらプロ入りを拒否したのは石原さんと新垣渚さんの2人だけ。
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